▼ 夏休みに偶然、新潟の長岡に行ってからずっと司馬遼太郎の「峠」を読み続けている。江戸幕府維持と新政府樹立で日本が2つに割れる中、主人公の河井継之助はスイスのように長岡藩を中立国とするという思想を持った人物で、中立を維持するには経済と軍事の独立が必要だという考えを持った人物だ。旅の途中で偶然立ち寄った長岡だが、河井継之助、山本五十六、そして田中角栄がいずれも長岡の出身であることには驚いた。いずれも一時期はもてはやされつつも、時流の中で批判され、非業の死を遂げ、さらには後年、名誉回復をされた。長岡人はよほど頭がよく、正直で、正論を語ることを恐れない土地柄なのだろう。
▼ さて、その「峠」を読むと、300年続いた江戸幕府は既に大政奉還、薩長による官軍創設、京から江戸への侵攻、それを支える海外の武器商人という構図が目の前で展開しているにも関わらず、考え方を変えられない多くの人物が描かれている。河合は江戸幕府を死守すべしという会合に長岡藩からも代表を出せと指示を受けて自分が行くと述べ、下記のような言葉を述べる。
「三百年、諸藩はことなかれできた。幕府に対し、わずかの過失をもおそれ、ひたすらにくびをすくめ、過ちなからんとし、おのれの本心をくらまし、責任を取らねばならぬことはいっさい避けてきた。もはやその幕府も無い。これからは諸藩はおのれの考えと力で行きていかねばならぬ。そのときにあたって三百年の弊風をいまだにまもるとはなにごとであろう。その会合にはわしがゆく」
▼ この言葉を読んで思い出したのが、日経ビジネスでファーストリテイリングの柳井氏のインタビュー記事「柳井正氏の怒り「このままでは日本は滅びる」」であり、また孫正義氏の「孫正義氏の渇望と後悔 「忘れられた島国」になるな」だ。いずれも時流が変わったにも関わらず、正常性バイアスのぬるま湯でまだ先進国で居続けられると考えている日本と日本人に対する失望、怒り、そして変化してほしいという一縷の望みを託したものだ。さらには産業企業分析をしている私にとって、ここ1-2年、日本企業に対して感じているのも、この「正常性バイアス」による害だ。わかりやすく言えば、「日本 総ゆでガエル化」であり、これはもはや禁句らしいが「日本総白痴化」である。
▼ 日本のサラリーマンは事なかれ主義が生命線だ。それは昔も今も変わりなかろう。人間はさほどに変わらぬ。しかしながら、現代の事なかれ主義は、わかったうえでの処世術としての事なかれ主義ではないところが厄介だ。ほんの数年前までの朝の通勤電車は新聞を縦に四つ折りにして読んでいる人々が普通であった。今はスマホに変わった。では何を読んでいるのか。何も読んでいない。しているのはゲームである。人と目をあわせず、耳にはイヤフォンを突っ込んで、人と接触せぬようにしながら、時には背の小さい女性の頭のてっぺんにスマホを構えてしているのがモンスターハンターである。ニュースサイトを読むものがいても、そこに書いている記事はテレビ番組でタレントが何を言ったというニュースとは呼べない代物だ。それを読んで世の中がわかった気になっている。劣化著しい。
▼ 柳井氏、孫氏の嘆きを読み、「峠」の上記の主人公の言葉を読みふと頭をよぎったのが「この国を出よ」「半島を出よ」という書籍のタイトルだ。何の本だっけと検索したら前者は大前研一氏と柳井正氏の著書、後者は村上龍の小説だった。二冊は全く違う内容の本だが、誰がという主体が違っているものの、強烈な危機感について書かれていることは同じだ。年金の賦課方式と積立方式の違いもわからず、年金がもらえないのは運用が下手だからだと当局を罵る国民、長寿化を理由に定年を55歳、60歳、65歳、70歳と上げていきながらも今いる組織にしがみつくのが得であるような社会構造を継続している当局、いずれも馬鹿者だ。若者には「この国を出よ」と言いたい….とかきかけて、小田実の「何でも見てやろう」を思い出した。世界をみなければ日本は再び存亡の危機に瀕する。