< どうして日本人は必ず年を聞くのか >
▼ 初対面の人との宴席で、楽しい会話をするのは難しい。仕事の話をいきなりするのも野暮だし、かといってパートナーや家族の形態が多様化しているため、家族のことを聞くのは禁物だ。
 
▼ 「英国人はとりあえず天気の話から入るのがマナーだ」と中学校の英語の教科書に出てきたのを覚えている。なるほど、後年かの地に行く機会を得てみて、雨や曇りの日が多く、晴れた日が貴重なかの国では、それが一番共感を得られる話題なろうと納得した。
 
▼ かなり以前だが、NHKの夜の番組を見ていたら、「なぜ日本人は年齢を必ず尋ねるのか?」という話題を議論していた。日本居住の外国人にとっては不思議な日本の慣習を議論することで、日本文化を外からの目で見てみようという企画なのだが、結論としては「儒教文化の色彩は依然残る日本では、年上・年下の演じるべき役割がある。それがわからないとコミュニケーションができない。だからお互い年齢を探る。」というものだった。
 
▼ その証明として実際に番組中で実験が行われた。見かけ同じくらいに見える男女4人ずつ8人によるバーベキュー合コンをやってもらう。ルールは名前だけ自己紹介すること。そうすると、全く盛り上がらない。たくさんの食材も用意されているのに、飲み物を少しずつ飲みながら沈黙が続く。よくありがちなパーティーでの日本の風景だ。
 
▼ そこにスタッフが忘れたフリをして、年齢入りのネームプレートを8人につけて貰うと、アラ不思議。急に話が弾みだし、いつのまにか年下群が調理をし、年上群が指示を出す。同じ年齢同士はタメ口だが、年下は年上に敬語を使い出す。年上の人間は年下に寛容な態度を見せることで、「良い人」を演じ、合コンは大団円で終了する。
 
▼ 確かにビジネス上の宴席でも、初対面の人との場合はお互いの年齢を探り出そうと色々な話題を振る。それが如何に巧妙で上手であるかが、コミュニケーションスキルの重要なキーとなる。「宴会上手」なサラリーマンというのが必ずいるものだが、その多くが出世が保証されると言わないまでも、重宝される存在であることは間違いない。

< 関西の会話のオキテ >
▼ 年齢が当たり障りのない話題であると同様に、出身地や住まいの場所も悪くない話題だ。私も仕事にプライベートに宴席で場をほぐすのに使うのが「関西と関東の会話のルール」の話。
 
▼ 関西の人は会話に「オチ」をつけることを重視する。関西の会話といえば、いま、朝のNHKの連続ドラマでやっている吉本興業に代表される「お笑い」、特にしゃべくり漫才はオチとツッコミという言葉を一般名詞化させてしまったほど影響力を全国的に持った。事実、関西で住んでみて「オチ」がない会話は大人の会話ではないと思われることが多い。明石家さんまさんの「オチはどこですか~?」というイジリはみんな知っている。

▼ 誰かが何か話題を振り、それを受けて何かのコメントをつけて次の誰かに話をパスし、受け取った人間はさらにコメントを付け加えて最初の二人のどちらかに投げ返す。そこに別の人間が絡んできてちょっとトボけたことを言い、他の人間がそこから話を次のステップに展開していく。この流れは東日本で生まれ育ったが人様の注意を引いたプレゼンをする機会が多い仕事をする私と関西育ちの私のパートナーには非常に理解しやすい。

< ボケと突っ込みが生む「様式美」 >

▼ しかし、可哀想なのは関東生まれ関東育ちの我が家の子供だ。実経験としての関西の会話のキャッチボールのルールなど知るわけもない。そうすると、家族でテレビを見ながらヤイノヤイノ言っているときに、彼のコメントだけが孤立する。言葉を次の人にどうパスするかを考えていないからだ。

▼ どうして関西、いや西日本の人はこういう話法を使うのだろう。多分、それが「様式美」であり「「暗黙知」なのだ。何の?。コミュニケーションを円滑にする、である。

▼ 往年のラジカルな笑いは時として人を大きく傷つける。しかし、それがある約束事、様式美に沿っていれば聞き手も安心して笑っていられる。そういうローカルルールがあちこちに存在した。だが、最近はテレビも規制がうるさく何も言えなくなってしまって、ただでさえつまらない番組がますますつまらなくなっている。相対的にNHKが面白いという妙な現象が発生している。

▼ 今は2017年の11月。モンゴル出身のお相撲さんが酔って同胞のお相撲さんに暴力を働いたのではないかと大騒ぎしている。確かに暴力はいけないし、有耶無耶にすることは許されない。ただ、一方でそこにそこでしか通用しないローカルルールがあるのではないか。それすらもすべて統一基準で断罪されるとすれば、随分と狭っ苦しい世界だ。そして、その狭っ苦しさが人をどんどん苦しめている。

▼ 果たしてそれらが「様式美」で「暗黙知」なのか、それとも「ムラ社会の掟」なのか見分ける眼力がこれまで以上に必要になっている。しかし、それすらも言えなくなってしまった。若者の間ではコミュニケーションを上手に取れない人を「コミュ障」とか言うそうだが、そういう世界を作っているのは他ならぬ「様式美」を「ムラ社会の掟」と言い換える今の流行であるような気がして仕方がない。