▼ < 弘徽殿女御 >: 内館牧子さんの「十二単衣を着た悪魔」を読んだ。小説を滅多に読まない俺には珍しいのだが、妻が図書館で一年間も予約待ちしていたというこの本を、わずか一日で読み終えた。めっぽう、面白かった。

▼主役である光源氏の父親である桐壷帝の正室「弘徽殿女御(こきでんのにょうご)」の視点から見た物語の世界なのだが、光源氏という若く才能と稚気に溢れた若者と、その才能と稚気に振り回され苦々しく思う親世代と、そしてその中間に位置する世代の世代論でもあるからだと感じる。

▼ < 若さとそれに対する疎ましさ >:  若い世代は未来がある。輝ける美貌と才能と動物としての生命力の高さの中での光源氏の存在は羨ましい限りだ。どんな正室だけでなく方々で妾を持つのはこの当時の習慣であるにせよ、義理の母から田舎でみかけた十にも満たない幼子まで「女」に対するストライクゾーンは広く、そして行動し、左遷された先だろうが、なんだろうが、いる女は口説くというパワーは、平安時代の中年が憧れたであろう若者の向こう知らずさ、勢いを表しているようで圧巻だ。

▼ しかし、このパワーが疎ましく、そして邪魔に思えてくるのが中年以降の親世代だ。パワーと稚気だけでは世間では生きていけない。右左と揺れ動く権力と実力者の顔色をうかがいながら生きることで、失われたパワーと稚気を補わなければ生命体として生きてはいけなくなっている自分を呪いながらも生きて行かざるを得ない。それは失われた若さというものへの郷愁であり、若さというものの限界に対する理解でもある。

▼ そして、その中間に位置する世代は中年以降世代以上に翻弄される。自分達は権力を持つ者達とも近いわけでもなく、かといって若さを失ったわけでもない。ただ、ひたすら揺れ動く舟の中で、何故、何故と疑問を持って生き続けるのみだ。

▼ 人気ドラマを次々に打ち出す人気脚本家によるこの小説は、実は世代というものに対する暗喩なのではないかと思える。

▼ < 忘れるという安全スイッチ >: そして物語の後半、狂言回し役の主人公は正室がこういうのを聞く。「いつまでも若くて威勢の良かった自分を諦めきれないで地位と名誉にしがみつくのはみっともない。老いたら、老いたで後進に道を譲るがよかろう。そうでなければ政などできるわけもなし」。

▼ しかし、多くの場合、そうは頭で理解していてもできないものだ。自分がまだできると思うことが大きい理由のひとつ。そして、二つ目が、威勢の良かった頃に守ってきたプライドや、そのために傷つけてきた人々、また自分を傷つけてきた人々を心の中でどう処理して良いかわからないから。

▼ 話はいきなり変わるが、知人が「『赦す(ゆるす)』と『水に流す』は違う」ということを先日教えてくれた。例えば我が子を殺した憎い殺人者のしたことを、「赦す」のと「水に流す」のは全く違うと。「水に流す」のは忘れたことにするだけであるが、忘れてはいない。憎しみ続けている。しかし、「赦す」というのは全てを受け入れて忘れることができるようになったということだそうだ。

▼ 人は忘れる。それはちょっと前であれば易々と思い出せた好きなミュージシャンの曲名だったりするところから始まり、時間の経過とともにあれほど赦せなかった上司や取引先の言動、そしてやがては一番愛する家族の顔まで忘れる。それは傍から見れば哀しいことだが、一方では忘れることで、「水に流す」のではなく「赦せる」ようになるという有り難いことでもある。人はいつまでも憎んで生き切れるほど強くはないのだから。

▼ < 語り部でありたい >: 実は筆者は認められること、世に出ることことに対する渇望がありながらも、ふと時々「もういいかな」と思える一瞬が鼻先をかすめることが多くなっている。老いたからなのか、パワーが失われたからなのか。そのパワーを取り戻そうとあがいてる途中なのだが、この小説の行間から「まぁ、いいんでないの、それで」という声が聞こえてならない。

▼ それは「若い世代に譲りなさい」と現役引退宣言を奨める諦観に似た声であると同時に、「すべてを受け入れよ」と説く釈迦の声でもあるように思える。とらわれないこと、あるがままに生きること、心が自由であることが仏教の基本理念であったかと思うが、そうすると今の自分はまだまだ囚われているということか。

▼ 最近、旅人になりたいと思う。多くの才能(=経営者)がどう集い(=組織)、どう諍い(=人事紛争)をし、その中でどう組織としての考え方(=DNA)を受け継いでいくのか。それを個別から普遍を作る、帰納法的手法で、多くのサンプルと共に見てみたいと思う。自分は決してその才能を持つプレイヤーではないことを理解しながら、だ。

▼ 自分は産業の語り部でありたいと思う。