< なぜ組織は「グダグダ」になっていくのだろう >
ずっと1つの疑問を持っている。それは外から他の組織を見ることが多かったからでもあり、また自分が属している組織を深く見つめることが増えたからでもある。それは「どうして組織は腐るのか」ということだ。
どんな組織も、とは言い過ぎかもしれないが、必ず腐る。「腐る」という言葉が過剰であるならば、「グダグダ」になっていく。それは組織に属する人々のモチベーションを下げ、組織の目的への到達を遅くし、時には組織自体の「自壊」に繋がっていく。
ゴーイングコンサーン、継続することが組織の最も重要な資質であるはずだが、生命体のように経年劣化し硬直化する。企業組織を「法人」と擬人化したことは、今思えば見事としか言いようがない。
では何故、「腐る」のか。
< 拡大は組織に組み込まれたDNA >
容易に想像つくのは、拡大とミッションのズレだ。組織は何らかのミッション、目的、「ありたい姿」があって形成される。そして、ほとんどの場合、それらは規模が拡大すればするほど到達しやすくなる。中小企業よりは中堅企業、グループよりは法人格を持つ組織、法務的なたてつけや制約条件は大きくなる分、できる範囲も広がる。だから組織は拡大することを運命づけられている。
拡大は同時に所属するメンバーのモチベーションも喚起する。学生のサークルでも、アイドルのファンクラブでも、起業された企業でも、また反社会的組織でも。力を得るからだ。よって、拡大はメンバーのモチベーションとミッションと矛盾することはない。そう、当初は。
しかし、組織の拡大は一次線形的には進まない。必ず、停滞期がある。10の努力が10の拡大を生んでいた物が、10の努力で1しか進まなくなる。残りの9はどこに消えたのか?。多くは組織の内部運営のルール作りの労力に費やされる。「何でもアリ」だったものが、「してはよいこと、悪いこと」を決めねばならなくなり、そのルール作りが必要となるからだ。それは規模の拡大とともに「つきあう外部社会」が広がるためでもあるし、メンバーのバラエティが増えることによって、暗黙知であったルールを明文化しなければならなくなるからだ。
これを超えればまた成長期が来る。しかし、何度かそれを繰り返すうちに、組織が始まった時と比べて切り捨てなければいけないことも多くなってくる。そして拡大とミッションのずれが起こる。ミッションや「ありたい姿」を到達するために作った組織が、組織そのものを維持するために動き出す。ここで多くの創業メンバーは嫌気をさしてモチベーションを下げるか、組織から離脱する。
< 「新撰組!」に見る腐り方 >
しかし、組織はそれ自体が生きているがごとく振る舞い始める。
規模を拡大した組織は外部からの信頼を得て、容易には傷つかないようになっているし、当初のミッションに100%同意していないリーダーでも運営は出来るようになる(むしろ、同意していないリーダーの方が運営しやすい)。
NHKの大河ドラマがつまらなくなったという人は多い。しかし、個人的には組織の崩壊や硬直性という点ではここ十数年の大河ドラマの方が高い表現力を誇っているようだ。代表的なのは三谷幸喜氏が脚本を書いたことで話題を呼んだ「新撰組!」だ。
天然理心流、試衛館に集まった若者が攘夷を目的に結成されたのが浪士組だったが、拡大とともに様々なメンバーが集まり、組織拡大による力を得ようとした頃から方向性が徐々に変化し始める。当初は、通常のルールとして設定された局中法度が狂乱的な絶対規則になり、山南敬介が自死せねばならぬようになってきたあたりから、ルールは「粛正」を求めるようになり、浪士組は狂っていく。
それはここ数年起こっている様々な企業の不祥事や業績悪化、それに伴う様々な出来事と奇妙な共通点がある。当初は辻褄あわせをしようとするが、やがては大きな断層を生じる。まるでマントル対流と近くの間で摩擦が蓄積されて起こる大地震のように。
そしてそこでは組織を維持しようとするメンバーの中でも、既得権益にしがみつこうとするもの、純粋に当初のミッションを守る組織へ回帰することを主張するもの、様子見をするもの、外部の状況を知らぬがため流される者と多くのバリエーションのメンバーが混在し、闘争を始める。一方、時間軸は容赦なく進み、やがて最悪の時は組織が自壊する。
< 腐ることが組織の運命 >
筆者は以前、それが不思議でならなかったし、限定された組織の問題なのだと考えていた。しかし、今は思う。「それが組織の限界なのだ」。
巨大化し、社会的に存在意義を得た組織はもはや個人では方向転換を促すことのできない巨大戦艦なのであり、破滅への運命を発生からインプラントされたものなのだろう。あとは人の死と同じで、如何にそれを遅らせるための技術を持つかだけが対応策だ。組織の分割しかり、のれん分けしかり、発展的解散しかり、第三者への譲渡しかり。
「法人」が法人格を持つと呼ばれるのは、色々な思惑や意識を持つ個人が組織を形成しているからだ。そして、個人vs個人の思惑違い、諍い、それに伴う不満不信・不協和が生まれるのは社会学や心理学の人文科学的理由によるものだ。
確かに考えてみれば、限界効用理論にせよ、パレート最適の議論にせよ、経済学はこの人文科学的要因を軽視しているというか、「経済合理人」しか対象にしていない。つまり捨象してしまっている。にも関わらず、たとえば企業という組織は経済的合理性を前提にしている。ここに大きな矛盾が生じる余地がある。
「組織は腐る」こと、これは不可避のことであり、それを前提に組織を運営するなり、属するなりをせざるを得ないのだろう。余りにも醒めた結論ではあるけれど、それが現時点での率直な印象だ。
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