< アルジェリアと大阪 >
 これを書いている2013年1月下旬、二つの大きな不幸な出来事について報道が流れている。一つは大阪の高校における教師の体罰を原因とする生徒の自殺、そしてもう一つがアルジェリアの石油プラントでテロ組織によって働いていた人々が人質となり、救出作戦で多くの死者が出たことだ。
 
 まずは亡くなった方々、負傷などの被害を受けた方々、そして関連する方々や企業にお見舞いを申し上げたい。
 
 この二つの不幸な出来事を見て、底流に感じるのは、悪しき流れを断ち切るためのトップ決断の重さやしんどさと、そのためにはサクリファイスが出るのだという事実の重さだ。サクリファイスはsacrifice、直訳すれば「いけにえ」という意味になるが、大江健三郎氏の「犠牲(サクリファイス)」というのに近い意味で使っており、決して亡くなった方々を冒涜するつもりは毛頭ないことを申し上げておきたい。
  
< テロ殲滅か人質生命尊重か >
 アルジェリアのテロは、プラントで働く人々を誘拐することで、身代金を得ようとする卑劣な動機であったと聞く。そして、それを知った人質が属する国の政府は人命尊重を第一にアルジェリア政府が行動することを要請した。しかし、残念ながら、アルジェリア政府はテロ組織への対決姿勢を鮮明にし、そのためにアルジェリア軍が人質の乗っている車を破壊し、鎮圧。しかし、人質の何人かの命が失われた。
 
 亡くなった方々が自分の友人知人、ましてや肉親であったならば、どんなにか悲しむだろう。そして、攻撃を許可したアルジェリア政府の責任者に対して、責め立てたであろう。アルジェリア政府の責任は重い。今後、石油プラントの建設が続けられるか不透明になるという経済的な問題が生じれば、アルジェリア経済に対する責任も発赤する。
 
 しかし、しかしながらである。アルジェリア政府のトップはそうした事象を予期しなかったであろうか?。否、十二分に予期していただろう。これは究極の選択である。どちらを選択してもネガティブな要因は残る。そうした中で決断と指令はトップ、責任者が下さなければならない。
 
 果たして自分がアルジェリア政府の責任者だったとして、軍の責任者だったとして、そうした決断ができただろうか。正直なところ、自信は全くない。どちらに転んでも非難されたであろうし、経済学で言うところのパレート最適(しかもかなり満足度の低いパレート最適)しか選びようがないのだから。
 
 < 大阪市立高校事件に見る既得権益の網 >
 大阪の市立高校は運動系クラブの実力が極めて高く、これまで多くの成績を残してきた学校だそうだ。なるほど、学校内の施設の写真をニュース映像で見たが、素晴らしい設備で、スポーツで自己実現したいと考える生徒には素晴らしい環境だったのだろう。
 
 ただ、そこで教えていた教師やコーチが素晴らしかったのかどうかには疑問が残る。なぜなら一人の生徒が、教師の体罰によって自死をした。しかもその体罰は、殴られる、はたかれるというものだけではなく、精神的も追い詰めるものであったようだ。
 
 比較的「体育会的」な物言いが多い、橋下大阪市長でさえ自殺の背景を知って、「時には体罰も必要と考えている自分の考えを改めてなければならない」と発言している。
 
 その橋下市長が打ち出したのが、体育科の今年の入試中止である。今日現在はかなり落ち着いてきているが、この一週間、喧々がくがくの議論と学校、教育委員側の抵抗があり、しまいには在校生の高校生が「なぜに大人の犠牲に我々がならなければならないのか」と会見を行うまでこじれた。
 
 メディア報道でも、個人的印象としては入試中止に反対する声が多かったように思う。ただ、それが本当にマジョリティの意見なのかどうかはしっくり来ない。何故ならば、どちらかというと「橋下叩き」的なムードが蔓延していたネット掲示板では、事件が発覚した当初から、「体罰は仕方ない、体罰は学校の伝統だと保護者が騒ぎ出して、署名活動でもして、結局、死んだ奴が精神的に弱いって話になるんだろ」という声が多かったからだ。実際、そういうムードが醸成されつつあった。
 
 しかし、橋下市長の決断は「体育科は入試中止。希望者は普通科へ志望変更せよ。府立高校の体育科の募集人員を増やすなどの対応策はとる。」であった。現時点の僕の意見は、凄い決断だと思う、ポジティブな意味で。
 
 一番簡単なのは、「変えないこと」である。変えるには変えるパワーがいるし、どう変えるのか、なぜ変えなければならないのかを振り返る必要がある。自分達が間違っていたことを認めるのは辛いことだ。また、変えてしまうと既得権益を失う人たちも大勢いるだろう。その既得権益を打ち破りたくて、府知事から市長になったのが橋下氏だ。その抵抗はメディアには乗り切らないものだったろう。
 
 緻密な予定調和と暗黙の了解。数回前に書いた関西弁の話ではないが、時にはそれが非常なる美徳や面白さを生む反面、恐ろしいほどの残酷さをもたらすこともある。その固くおられた既得権益の網を壊すには、八方美人ではできない。
  
< 野田元首相、そして大河ドラマ >
 ほぼ同時期に起こった二つの事件、アルジェリアのテロ対応と大阪市立高校の入試中止の根には、日本の組織がいまだに超えられぬ深い問題がある。「悪しき状況を打破する変化には、批判はあえて受けるというトップの決断と、サクリファイスがいる」ということだ。橋下氏は今朝のニュース番組でこう言っていた、「色々言うのは勝手だが、じゃあ、誰が生徒の自殺に、こういう学校の運営方針に対して責任をとったのか。俺が責任をとると誰が言っているか。いないじゃないか。それでは理屈は通らない。」、尤もである。
 
 あえて言うならば責任者は橋下市長本人である。そしてその責任者が変えるべきだと方針を決めた。「もし、自分が適切(=ライトパーソン)でないとするならば、市民は私をリコールする権利を行使できる」とはっきり述べている。入試直前で変化を求められる受験生や在校生もサクリファイスならば、リコールされれば橋下知事もサクリファイスになる。サクリファイスなしに変化は生まれない。
 
 そう考えると、2012年の11月の民主党野田首相(元)が自民党安倍総裁との国会討論で、「法案を通してくれるならば、解散総選挙やろうじゃありませんか」と言ったことも腹が据わっている。誰が考えたって、民主党はこの三年超の与党の間、上手くやってこれなかったことは事実だ。途中で世界経済の悪化や東日本大震災があったにしても、だ。確かにそれは運が悪かったかもしれない。しかし、できなかったことは事実だ。当然、選挙をすれば負ける。だから、ずっとグダグダと政権を手放さなかった。それが2012年の政治だった。
 
 自民党が、第二次安倍内閣がうまくやれるのかは誰にもわからない。しかし、既得権益の網を手に入れた自分達自身を変えなければならないと、選挙で負けるのを覚悟で変化を選んだ野田元首相はある種、アルジェリア政府責任者、橋下市長を想起させるものがある。そして、この誰もが一般的な「世間受け」をせず、メディアでも彼らが素晴らしかったと言わなかったという点で共通項がある。
 
 今年の大河ドラマは会津藩が舞台である。もちろん、東日本大震災で大きな被害を受けた福島、東北へのエールとして、この地域を取り上げたのは想像に難くない。
 
 幕末物のヒーローは長州であり、薩摩であり、土佐である。「龍馬伝」も「篤姫」も面白かった、夢中になった。「龍馬伝」の高杉晋作を演じた伊勢谷友介さんはシビレルほど格好よかった。
 
 一方で、会津は常に悪役である。新撰組は会津藩の支援で活動したし、幕府崩壊の後、土方歳三が会津で反幕府勢力と抵抗したのは有名だ。しかしながら、白虎隊にしても、会津城落城にしろ、土方歳三の最期にせよ、すべては哀しいトーンで描かれることが多い。何故ならば、彼らは変化におけるサクリファイスだったからだ。
 
 偶然ではあるにせよ、質実剛健、真面目一本、しかしながら新政府においては常に冷や飯を食わされ続けてきた会津が大河ドラマで取り上げられ、ドラマではない現実の世界でもサクリファイスに焦点が当たっているこの状況。やはり小説やドラマや映画といった芸術は時代を写すのだろう。
 
 そういえば、三谷幸喜さんの「新撰組!」が放映されたのは2004年だった。三谷さんは、絶対的なヒーローである坂本龍馬や西郷隆盛や桂小五郎よりも、新撰組が好きだったと当時語っている。視聴率的には決して恵まれなかったこの大河ドラマを僕は全て見て、時には泣き、そして大河ドラマで唯一DVDボックスを買って所有している。変化とサクリファイス、それについて今年は思いを馳せる年なのではないか。