< サイバラ >
教養ある家で生まれ育ち、小説を読むのが何よりも好きという妻には信じられない話らしいのだが、私はマンガを読むのが何よりも好き。子どもの頃は、定期的な小遣いを貰っていなかったので、マンガを読むという行為自体に飢えていたのだと思う。「予約」なんていう高級なものが床屋には無かった頃に、二時間でも三時間でも待つのは楽しかった。その間は本棚一杯のマンガが読めたから。
自分で稼ぐようになってから、いわゆるマンガの「大人買い」をするようになったのはその時の反動だと思う。「信じらーれなーい」と呆れる妻を尻目に、「20世紀少年」一気読みをして「うぉぉー」とか唸っている瞬間は生きているって感じがするのだ。
ここ数年のお気に入りは何と言っても西原理恵子さん。最初の出会いは故・神足裕司さんとの共著「恨ミシュラン」で、本格的に読み始めたのは「できるかな」「鳥頭紀行」のあたりから。完全に「ハマってる」と自分で認識したのは、「ぼくんち」「上京ものがたり」「女の子ものがたり」「パーマネント野ばら」あたりの作品からだ。「毎日かあさん」はもはやバイブル。
< とりあたまJAPAN >
西原さんの唯一無二の面白さは壮絶な人生体験から生まれたものなのだが、それは後年、人気作家になってから徐々に述べられ始めたもの。最初から壮絶体験をウリにして世に出てくるインチキ作家とはそこが違う。
だからなのか、共著を組む相手も伊集院静さんや清水義範さん、山崎一夫さんなど、ガチンコ勝負しか許されない相手ばかり。最近の共著では元・外交官で、鈴木宗男氏の背任容疑の関係で逮捕、起訴、執行猶予付有罪判決を受けた佐藤優さんとの「とりあたまJAPAN](二巻目は若干名称が変わった)が傑作。
佐藤さんは見た目が怖く、「いかにも」という悪人顔なのだが、「とりあたまJAPAN」で書いている内容は極めて常識的で、正義感溢れるもの。そこを見抜いた天才サイバラリエコが突っ込みまくるので、佐藤氏の文章と西原氏のマンガが絡んでいるようで絡んでいないような、ビミョーな浮遊感が楽しめる傑作なのである。
< 愚行権 >
中でも唸ったのが「愚行権」についての回。
「愚かしい行為の権利」とは、人の迷惑になったり、公益に反する行為でない限り、他人が「馬鹿じゃねえの」と思うことをやるのは自由だという権利だそうだ。それが許されていることが近代社会の一つの条件なのであり、真冬に部屋の中で素っ裸で寝ようが、足の爪のにおいを嗅いでウットリしようが、はたまたコーラの一気のみを10本しようが、他人様に迷惑をかけなければとやかく言われる筋合いはないという。そういう権利だ。
無知なる僕はこの言葉は佐藤氏の造語だと思っていた。ところがどっこい、これは経済学者のミルが「自由論」で展開した考えで、れっきとしたガクモン的用語なのである。詳しくはウィキペディアでも参照してもらうことにして、これにはひっくり返って驚いた。「知識がない」というのは情けないものだ。
< 一億総評論家、再び >
でも、頭が悪いのは僕だけではないらしい。世の中が全般に頭が悪くなっているような気がする(自己弁護ではない)。
おおよそ知識人的要素が欠けている僕は、実は2ちゃんねるのまとめスレを読むのが好きだったりする。しかし、このまとめスレ、面白いには面白いのだが、「愚行権」の観点からすれば随分とせまくるしい社会になったと嘆息するような書き込みも多い。
アイドルになりたくて秋葉原で一生懸命踊りを練習してテレビに出演できるようになった女の子が、整形しているように見えようと、彼氏と色々な行為をしていようと、まぁそれはおおよそ自由である。別に「天上天下唯我独尊」と生まれた訳でもあるまいし。
しかし、それを一生懸命、電気代と時間と労力を使って書き込みをしているのをみると、何じゃいなと考える。まぁ、「書く阿呆に、読む阿呆。同じ阿呆なら、書かなきゃソンソン」なのかもしれんけど。
インターネットが発達して「知」や「教養」の蓄積が進むかと思えば、進んだのは「愚行権」を否定するような批判、評論ばかりだ。一億総白痴化というのは大宅壮一氏が作り出した言葉だったと思うが、同時に一億総評論家時代という言葉も流行ったと記憶する。テレビメディア時代も手に負えないが、ネットメディア時代もまたさらに手に負えない。小面倒なことだ。
まとめスレを愛読しておきながら言うのは大矛盾であるが、ネットで総評論家時代を再び繰り返すくらいならば、マンガを読め、サイバラを読め。その方がよほど公益に資するぞ。少なくとも製紙会社とインキ会社とデザイン会社と出版社の従業員の給料には貢献できるだろう。自分の精神衛生にも良い。
今日はサイバラの「毎週かあさん」を読んで寝るのだ。とてもよく眠れる。健康にもよくて、マンガは最高なのだ。
※この文章を書いて「白痴」という単語が変換されず、驚愕した。嘘だと思ったら、試してみて欲しい。筒井康隆氏が断筆宣言をしてまで守ろうとした言葉狩りへの抵抗が、いつの間にかシステムではしっかりと骨抜きにされていることを憂えないわけにはいかない。言葉を変えれば免罪符になると思っている勘違い野郎がいることは情けなくもあるのだよ。