< 「専業主婦になりたい」 >
夏に妻方(つまがた)の法事があった。数年前に逝った祖母の七回忌を兼ねて墓参りをし、祖母と祖父が好んで通ったという中華料理店で会食をするのだ。
祖母が存命中の時も含めて、これまでにも数回この親戚会は催されているのだが、当然のことながら同じ世代の者同士が同じテーブルに座ることになる。
叔父や叔母は殆どリタイヤしたして悠々自適の生活で、孫である我々世代が家計や仕事や教育で悩むようになり、そしてつい数回前の会で「だんご三兄弟」を歌っていた曾孫達は高校生や大学生。「だんご三兄弟」はつい最近のヒット曲だと思っていた自分達は、立派なオジサンとオバサンだ。
さて、「だんご三兄弟」ではボーカルを務めていた短大一年生のMちゃんは受験のタイミングもあったため、四年ぶりの参加。両親に挟まれる形で我々のテーブルに着いた彼女は、バッチリお化粧を決めた今風になっていて、飲み物を頼むのにメニューを遠く話してみている初期老眼の我々を驚愕させた。
短大では一年生の後期には就職を意識して動き始めるそうで、彼氏の有無や若者での流行り物、ケータイの話などを一通りした後は、進路の話へと必然的に移っていく。「どんな方面のことがしたいか夢はあるの?」 聞いたのはテーブルの中で一番姉御役の妻のいとこのK子ちゃんだ(短大生の前で「ちゃん」は、オバサンには似つかわしくないかもしれないけど)。そして我々はその返答に唸った
M 「専業主婦になりたいです。」
一同 「ええっ!?」(←ここで全員のけぞる)
K子 「何、やっぱり彼氏がいるの?」
妻 「今でも女性の就職差別があるから?」
筆者 「大学全入時代だから、短大生の就職が不利になっているの?」
殆どがバブル前後に社会人になった我々は、1985年に成立した「男女雇用機会均等法」の中でも是正されない企業の男女雇用差別と闘い、女性が社会進出を果たしてきた先陣世代。多くの屍を乗り越えて、今の女性の雇用状況を作ってきたという自負のあるK子ちゃんや妻にとっては、当然の質問だった。
< 小坂明子「あなた」 2012 >
しかし、Mちゃんの返答はさらに我々を驚かせるものだった。「いや、そうじゃなくて、『専業主婦』というものになりたいんです。」
ここからの話は長くなるので要約すれば、こういうことだ。
(1) (Mちゃんの)両親は二人とも働いて忙しい。その中で家事をして、自分を育ててくれたのは大変なことだったと思っていた。
(2) 周りを見ても、社会進出を勝ち取った30-40歳代の女性は、必ずしも私生活では幸せではないように見える。
(3) 少子化が進む中で子供を健全に育てることはとても重要なことになるだろう。
(4) 専業主婦になり、夫と子供の世話をしっかりすることは社会にとって貢献といえる。
(5) 男子でも就職が難しい時代に、スキルがあって生存能力のある男性の専業主婦になることは非常に狭き門である。
(6) よって、就職と専業主婦は並列な関係だ。
テーブルの我々世代は黙り込んだ。勝ち取ってきた男女差別の壁の撤廃が、後輩達にあっさりと否定されてしまった悔しさ。社会進出した女性が幸せそうに見えないという、本人達も感じていた「幸せそうじゃない」という指摘の痛さ。メディア報道では知っていたけれども、現実問題としての厳しい就職状況。そして、自分たちが「バブル世代」と呼ばれて、若い彼らの雇用をクラウディングアウト(=閉め出す)していることへの後ろめたさ。色々な想いが錯綜する。
確かに、バイリンギャルとしてキャリアウーマンを明確にイメージとして表現した山口美江さんは、独身生活で自宅孤独死された。しかも、彼女を有名にした漬物のCMで山口さんは、社会で求められる役割と素顔の自分との間で疲れた自分を既に表現していた。
ネットでは、芸能人の親族の生活保護不正受給問題以前よりずっと前に、「ナマポ」という名前で生活保護受給vs厳しい就職状況について、不満が語られていた。そもそも、フリーターという生き方を最先端と信じ、それが派遣社員という名前になり、やがてリーマンショックの2008年に派遣切り・年越し派遣村という形でその生き方の間違いを図らずも立証することになったのも、我々世代だ。
「昼は近所の奥さんと子供達にお菓子作りを教えて、夕方からは代官山の戸建てで夕飯の用意をし、洗濯物を畳みながらダンナ様の帰りを待つ」というMちゃんの語る夢は、1974年に大ヒットした小坂明子さんの「あなた」の世界観と重なる。デジャ・ビュ、だ。
< 日米経済と低価格業態の普遍性 >
話は突然とぶ。
業務上の出張で定期的に欧州、米国に出張するようになった頃は、仕事の空き時間さえあれば小売店を見て回っていた。百貨店にドラッグストアにショッピングモール….なんでも新鮮。
中でも、当時日本に上陸したばかりの米国衣料ブランドGAPの店舗には興奮した。SPAという概念を成立させたGAPを知ることは、製販統合がどういう付加価値をもたらしたかを明確に示す実例だったし、日本にはなかったバナナ・リパブリック、オールド・ネイビーというアッパー&ロワーゾーン業態は現地でしか見れなかったからだ。
特にオールド・ネイビー。衝撃的だった。なぜなら、当時どうしても理解できないこと、それが米国小売業の低価格業態の普遍性だったから。日本では低価格業態とはゲリラ的な業態であり、組織化されたものは殆どなかった。ウォルマートと比較する対象は日本型GMSしかなく、オールド・ネイビーもまたファッション(=流行)の代表的商材であるアパレルで低価格業態が存在しうるのか、が知りたかった。日本ではGAPは数寄屋橋阪急にしかない「ブランド」だったのだから。
結果を言えば、日本型GMSは現在、非常に厳しい状況にある。一方で、PLANTやトライアルに代表されるディスカウンター業態がその地位を浸食している。GAPの存在は、日本では言うまでもなくユニクロという巨人を誕生させた。
しかし、筆者が述べたいのは結果論ではない。背景の類似性をどう考えるかだ。
ウォルマートの創業は1962年、爆発的な成長を遂げたのが1980年代である。全米最大小売業となったのが1990年で、サム・ウォルトンは1992年に死去し、その後世界展開を始める。一方、GAPは1969年創業、SPAという名称で製造小売業のサプライチェーンを定義して爆発的な成長を始めたのが1986年、そしてオールド・ネイビー業態を開発したのが1994年。
これに米国経済を重ね合わせる。
1970年代にベトナム戦争敗戦、オイルショック、貿易赤字と米国経済は悪化の一途をたどる。1980年代初頭にレーガン大統領の「強いアメリカ」を目指す経済政策、いわゆるレーガノミックスで景気は回復するものの、規制緩和や大幅減税、歳出削減、マネタリズム金融政策が手段だったため、国内製造業の弱体化という血を流す景気回復となったまた、貿易赤字と財政赤字の併存である「双子の赤字」も生み出した。そして1990年代前半は「ジョブレス・リカバリー」(=雇用無き回復)と呼ばれるゆがんだままの景気回復で幕を開ける。
ウォルマートもGAPもそんな時代で既存勢力にとってかわっていった。
では、日本は?。米国小売業の当時の状況に似ている。
(1)製造業の輸出競争力の低下
(2)「ジョブレス」状態
(3)企業と家計のバランスシート調整…など
家計の米国の自動車産業が日本では民生電機産業であるという違いはあるにしても、だ。
そして妙な符合は、日本でオールド・ネイビー業態がオープンしたのは2012年の夏である。
< 時代は変わる(The times They Are a-Changin’) >
こういう書き方はオカルトであり、「トンデモ」本の類であることは十分承知で書いている。いや、オカルトであってほしいくらいだ。
しかし、現象だけを並べても両者が似ていることは事実だ。日本製自動車をハンマーでたたき壊すシーンと共に思い起こされる「日米経済摩擦」、ナショナリズムの高揚という部分まで符合してくる。
だとすれば、日本型GMSで生き残るのはTARGETのようなごく一部であり、SSMと言えどもセーフウェイやアルバートソンのように生き残りの聖域ではない可能性がある。そして、ゲリラ業態としてではなく、普遍的業態としてのディスカウンターがさらに台頭するのかもしれない。2012年秋の各社中間決算は、それを予感させるのに十分過ぎる状況証拠を残している。
もちろん暗い予想だけではない。ジョブレス・リカバリーと日米経済摩擦、そして日米構造協議というある種のナショナリズムの押しつけの後、米国は「ニュー・エコノミー」と呼ばれる景気回復に入った。その牽引役はIT革命である。2000年代初頭にその結果としてのITバブルははじけるにしても、ニュー・エコノミーによる回復は金融市場に波及し、2008年のリーマン・ショックまで続くことになる。
果たして当時のIT革命に匹敵する大きな変化が日本の製造業・産業界に生まれるのかどうか。生まれるのであれば、今の日本はまさに「夜明け前」なのであり、生まれ得ないのであればさらに暗い時代の始まりとなる。 前者の証拠にノーベル賞山中先生のiPS細胞研究を上げられるし、後者の悲観論の証拠には少子高齢化が挙げられる。予想の結論は筆者にも、ない。
ただはっきり言えるのは、低価格業態を支える社会的な構造、要するに低所得層・貧困層が生まれる素地は日本でも出来上がってしまったということだ。そして、気がつけば、実際に存在し始めているということでもある。とすれば、低価格業態は普遍的存在として、これまでの中間所得層の一定部分の量的シェアを食うことになるだろう。
「専業主婦になりたい」というMちゃんの将来の夢は、決して先輩や我々世代の努力を無とする戯言ではなく、時代を正確に読む若者の嗅覚によるものなのかもしれない。ブームとしての低価格ではなく、必要性としての低価格が要請される時代が既にそこにあるような気がする。