▼ ESGにSDGsにインパクト投資にグリーントランスフォーメーションに人的資本に、、、世の中をより住みよくし、高いモラルを持つことを数字で可視化しようという流れが怒濤のように押し寄せている。それはリーマンショックで多くの人々が疑問に感じた貪欲さや近代資本主義への反省が背景にあったのだろうし、地球を壊しかねないすべての環境破壊への反省から生まれたものなのだろう。
▼ しかし、である。結局はそれを金額に翻訳して、価値があるかないか、投資をするのに意味があるのかないのかという点に修練していることへの胡散臭さを感じざるを得ない。事実、国連がこのままでは環境悪化、社会不正義、まともな組織運営なしに世界が滅びるのでないかとESGの概念を広めようとしたが、笛吹けども踊らず、ならばと、投資家の投資基準指標として埋め込んだら動き出すのではないかと考えたのが、大当たりしたのが今の大ブームだ。そして、それは、本来はよりよい世界を社会を作り上げようという理念から離れ、ESGという名前の魔女狩りと、魔女狩りに合わないための表層の美麗さだけを繕うことに懸命な行動を呼び起こしただけではなかったのか。そんな疑問が消えない。
▼ 本当にそれらのモラルが大切だというならば、産業の出す二酸化炭素など比べものにならない戦争兵器が出す数々の有害物質はどうなのか、なぜそれを止められない国には強い罰則を与えることはできないのか、そもそも武器を売り続けて莫大な利潤を上げている国や企業が批判されないのはなぜなのか、第二次大戦の戦勝国がすべてを決める権利を持つ国連体制を批判し、即刻やめようとしないのはなぜなのか、、、考えれば矛盾ばかりである。結局は何のことはない、あれほど痛い目に遭ったカネと貪欲さを形を変えるためだけに使っているハリボテのモラルもどきでしかないのではないか。
▼ このままではイケナイことは確かにたくさんある。そしてそれを投資やカネというツールで正していこうという考えは、一つのアイディアであろう。しかし、そうした「神の見えざる手」「レッセフェール」ではうまくいかないことも、また私たちは学んだのではないのか。
▼ 新聞を開くと途切れることのないモラルの数値化の話題を見て、ウンザリする気分を今日も僕は避けられないのだ。事実、あちこちで憎み合い、人殺しや略奪や人権蹂躙が行われ、それにモラルの数値化は役に立っているのか?、そう考えると疑問でならないのだ。