▼ 先日、ある業界勉強会の懇親会で多くの若い人と名刺交換をした。その中で、ある方との名刺交換の順番を待っている際に、話していた内容がアニメ「機動戦士ガンダム」の話だった。順番待ちをしている私に気づいた彼らは、私を話の輪の中に入れてくれた(今のスタートアップなどにチャレンジしている若者はとても礼儀正しい。一部の中高年とは大違いだ)。

▼ 名刺交換を終えた後、彼らと歓談させていただいた。私にとっては懐かしい「機動戦士ガンダム」はいまや、色々な方向に話が派生し、数え切れないほどだという。

▼ 「機動戦士ガンダム」は僕が高校生の頃にリアルタイムで放映されて、大流行し、多くの同年代が見て支持されたアニメだ。僕の高校では夏休み明けに学校祭があり、そこで各クラスが「行灯」と呼ばれる、ねぷた祭りの山車のようなものを作成して近所を練り歩く「行灯行列」というところから始まる。たいていは歌舞伎の勧進帳などの名シーンを選ぶのだが、その時に話題になっているものを「行灯」にするクラスも多い。二年生の時の僕が所属していたクラスは「機動戦士ガンダム」の戦闘シーンだった。

▼ 僕の世代は小学校低学年の時に「ルパン三世」や「宇宙戦艦ヤマト」などの新感覚のアニメが多く放映され、高学年になるとそれらが夕方に再放送されたことで、爆発的にアニメ文化が広がった。女子は「アルプスの少女ハイジ」や「キャンディキャンディ」などを好んでみたいてことを覚えている。

▼ 特にガンダムは、日本のヒーロー戦闘ものにある「哀しさ」に満ち満ちていた。ウルトラマンQやウルトラマンシリーズ、仮面ライダーシリーズなどのヒーローものに共通なのは、主人公だけではなく、、敵=怪獣もまた非常に辛く淋しいバックグラウンドをもっているという設定にある。つまり、地球征服に来た敵側にも一分の理があるというところが、アメリカンヒーローものとの大きな差だ。

▼ ガンダムでは、視聴している世代と同じ年代の主人公が若さ故の悩みを抱えながら、「何故闘うのか?」と悩みながらも、敵と戦うという非常に深い内容である。その原点は日本文化の「すべては移ろいゆく、はかない存在なのに、なぜ敵と味方で戦うのか」という哲学的なテーマがあるように思う。

▼ 平家物語にしても、明治維新における敗者である旧幕府軍にしても、また「判断びいき」で知られる源義経にしても、「敗者への道場と尊敬」がそこにはある。スポーツマンシップで敗者へも拍手を送るという文化に近いところもあるが、坂口安吾が書くように日本という民族は他者を徹底的に憎むということができないのだろう。そしてそれは、ある意味で今でも世界中で起こっている紛争、戦争を見ている我々が感じることに極めて近い。

▼ 僕が高校生を過ごした1980年代は、「ルパン三世カリオストロの城」を始めに、「風の谷のナウシカ」など宮崎駿さんが登場し、アニメージュなどのアニメ専門雑誌も創刊された時期でもある。ちょうど家庭用ビデオが普及し始めた時期でもあり、技術の発達がアニメーションという比較的古い技術の動画への評価を大きく変えた時期でもある。

▼ 後年、社会人になって「新世紀エヴァンゲリオン」の存在を僕と妻は知るが(主人公のコスプレをする芸人さんを通じて知った)、このアニメも根底にあるのは父と息子の葛藤であったり、視聴者と同じ世代の主人公達が、その特殊能力ゆえに戦いにかり出されることへの苦悩であることに、日本アニメに面々と流れるモチーフが変わっていないことに驚いた記憶がある。

▼ 新アニメの始まりの一つである「宇宙戦艦ヤマト」は、最初の放映が日曜日の夜というアニメには甚だ不利な時間帯の放映で、同じクラスでも2-3人のマニアしか見ていなかったように記憶する。そして、まだまだ第二次世界大戦の記憶が消えない世代が多い時代で、「好戦的だ」と左派の大人からは厳しい批判が出たアニメーションでもあった。

▼ しかし、その内容は「ガミラス星」という故郷の星が星の寿命という理不尽な理由で滅亡しかかっているため、次の新しい故郷を得ようと地球を攻撃し、彼らは耐性を持つ放射能による汚染で地球は破滅寸前に追い込まれるところから始まる。ガミラス星人は確かに好戦的ではあるが、しかし、それはやむを得ない事情があるわけで、これは今の移民、難民、中東問題と全く同じ状況である。これを地球側から見るか、ガミラス星側から見るかで、全く「正義」は逆になる。そのため、激しい戦闘シーンの合間に、しばしば、故郷を理不尽に失ったからこそ闘ってきている彼らを、無条件に攻撃してよいのかと悩むシーンが数多く出てくる。

▼ また、ガミラス星の兄弟星であるイスカンダル星もまたガミラス星同様に近く滅亡するリスクを抱えており、そこに住む唯一の生き残りであるスターシャという女性が地球の惨状を知り、放射能除去装置の作り方を教えるから地球の人々に来るようにとメッセージを送る。それが宇宙戦艦ヤマトが建造され、イスカンダル星への旅をするするのだが、スターシャは同時にガミラス星の統治者であるデスラー総統のしんどい気持ちにも理解を示す。欧米で移民難民問題が起こり、日本でも同様の問題が起こるのではないかという懸念がある中、なかなか彼らを排斥しようという機運が高まらないのと、宇宙戦艦ヤマトのモチーフは酷似している。

▼ 日本のアニメは飜訳され、テレビで放送され、その文化は大きく世界に広がり、インバウンドにも繋がっているのだが、その根底にはどの国にも共通のテーマがあるからだと僕は感じる。普遍性のあるテーマを持つことが如何に相互理解に重要なのかと感じる、名刺交換会だった。

「日本アニメが世界に広がった理由」への6件のフィードバック

  1. ガンダムやヤマトの背景や現在に至る歴史については語り始めると止まらなくてなのですが。
    (たぶん佐々木さんに釣られているのだろうと思います)

    おっしゃる通り日本では世の中は混沌で矛盾があり、善悪や敵味方も択一的には決められないと言うことはコンセンサスとしてあるのですが、欧米、特に今のアメリカはそうでは無いようですね。
    基本アメリカは「敵」を想定し、様々な問題を「敵」のせいにしないと安心できないお国柄だと思ってます。
    ですからアメリカの人々は攻殻機動隊等の日本のアニメを深いものとしてマニアは珍重するのだと思います。しかしこんな日本の考えがコンセンサスになることはまず無でしょう。日本人はストレンジだと。
    ただアメリカ人には日本人には無い「赦し」と言うキリスト教的概念があリました。
    ですからアメリカでの1950年代のマーベルやDCコミックのヒーロー達には必ず明確な敵がおり、そいつは理屈抜きに悪くてヒーローと敵対するのですが最後にはヒーローが勝利し(明確な勝利が必須)最後の最後には赦してやるというのがメインストーリーでした。

    しかし、現在はその「赦す」という概念がアメリカからすっぽり抜け落ちているような気がします。
    これはきっとアメリカが明確に勝てなくなったからだと思うのですがどうでしょうか?

  2. 竹垣さん、コメントを有り難うございます。
    ウルトラシリーズやヒーローもの、そして新アニメをリアルタイムで経験した私たちにとって、単に「勧善懲悪」ではない何かが籠められていることは実感として染みついていますね。

    さて、米国の件ですが、「赦し」はあくまでもイエスキリストによってなされるものであり、それは他の一神教の宗教も変わらないのではないでしょうか。万物の歴史に詳しい竹垣さんに反論をするのは勇気が要りますがね(^^)。
    最近特に感じるのですが、日本古来の「八百万の神」はアニミズムであり、人によっては原始宗教のようだと思われるかも知れません。しかし、八百万の神で、僕の目の前のペンにも神にもお米一粒にも水にもなんにでも神が宿っているからこそ、なんであれ、自分達は神に囲まれて生きているという考えがしみついているように思います。
    移民、難民問題や世界中で起こっている紛争が、いまひとつ理解できないのは、日本は「とてつもないオプティミストで脳天気」であるからこその「性善説」を持っているように思います。「話せば分かる」的な楽観製をもっているのはそのせいではないかと。だから、米国は過去も今も「赦し」はなく、あくまでも彼らの神に赦されることしかないのではないでしょうか。

    ガンダムにしても、ヱヴァンゲリヲンにしても、ヤマトにしても、少年~青年期の思春期の様々な矛盾と「なぜ闘わなければならないのか」という根本的な疑問が根底にある以上、私は普遍性を持つと思います。珍重されているだけならば、ここまでインバウンドのアニメブームは続かないでしょう。

    ただ、アメリカが明確に勝てなくなったこととそれへの焦りは確実にありますね。トランプさんのMAGAがまさしくそれですし、欧州のCO2帰省やESG、SDG、IFRなどでなんとか欧州帝国時代の力を取り戻したいと考えていますが、残念ながらそうはいかないでしょう。

    かとって、共産主義を名乗る独裁主義はマルクス経済学とは根本的に異なるものであり、こちらも果たしてどうなっていくかは我々世代はチャウシェスク大統領の無残なクーデターによる惨殺などでよく覚えています。どういう方向に進むかわかりませんが、本当に意味で「他者をゆるす」ことを持つ人間が多い国や地域は、色々とあれど最終的に強いのではないでしょうか。一年間もほったらかしにされている能登の方々が、心が折れながらも、しばしば笑顔を見せてくれるその力強さに、天災でさえ「八百万の神」が起こしたものだという、よくいえば納得感、悪く言えば諦観があるからこそ、暴動が起きないのだと私は感じます。

  3. 「赦す」話を持ち出したのでポイントがずれてしまいました。
    私の言いたかったのは「善悪」と言う概念でした。
    アメリカの人は物事を善悪で考える人たちだと言いたかったわけです。

    善悪という概念は具体的な「悪」という存在があると言う事を信じてこそ成り立つものです。
    私が言いたかったのはアメリカの人には.そんな「悪」というものが善と対置して存在していて、具体的に「悪い奴」「悪い集団」「悪い国」があると思っている人が多いと言いたかったのです。
    アメリカ史を見るとそのような存在がたびたび登場します。
    例えば、異端者、アジア系移民、コミュニスト、でしょうか。
    上記の人たちは程度こそ違いますが「絶対的な悪」と認識され今となっては信じられないような偏見(魔女狩りとか赤狩りとか)を受けて差別され迫害されました。
    今でしたらディープステートでしょうか。
    こうした「悪者」はその時代時代の権力者によって創造され権力者の正当化の道具に使われてきました。
    そういう風に建国以来やってきたと言うわけです。

    一方、日本は そもそも「善悪」を明確にすると言う意識が希薄でどんな世界にも個人の中にさえグラデーションで入り混じっているものだと言うのがコンセンサスだと思います。そもそも善悪どころかちょっとしたことの白黒つけるのさえ苦手です。
    だからアムロにしてもシャアにしてもどっちが悪いかも言い難いし、ジオンにだってランバラルのような一緒に居酒屋で話をしたい奴がいる。そんなアニメを作るのだと思います。

    もちろん現在はアメリカ人も、以前のような白黒つけ野郎ばかりではなく、自分たちでダイバーシティなどと言い出すぐらいですから「世の中そんなもんじゃい」と言うのも分かっていて、1950年代は善悪明確であったヒーロ達も悩み、随分と新しいヒーロ達が出てきました。あの名作映画「ジョーカー」などは一つの到達点だと思います。
    だからこそそうした善悪の機微が偏在していることを上手に描く日本のアニメが目新しく(これが珍重の意味です。悪意はありません)支持を受けるもだと思います。

    ただそんなアメリカ人も日本の江戸時代と同じくどっぷり200年以上他の世界とは隔離されてアメリカ的価値観にひたっていたためトランプさんとかに「アメリカが悪くなったのはみんなディープステートのせいだ!あいつらは悪で世界を牛耳ろうとしている」とかいわれると「そうだような。やっぱり「悪」はあるよな。そうじゃないと俺の暮らしはこんなに悪くなるはずないもんな」と思うのではないでしょうか。
    このあたりは、当然佐々木さんとしてもいろいろご意見がおありかと思いますので改めて議論いたしましょう。

    ちなみに「赦す」ですが「赦す(forgive)」と「許す( permit)」はごっちゃにならない違う概念と解釈しています。
    キリスト教で言う「赦し」は「相手を罰したいという自分の欲求を手放して、すべてを神の御手に委ねる」人の行為だと思っています(ただここは勉強途中です。間違っていたら御免なさい)
    日本人の非キリスト教徒は「水に流したり」「許可して」許すことは出来ますが「赦す」という概念は無いと思います。

  4. 意外かも知れませんが、私も同意見です。
    善と悪のような二項対立は非常に単純化された見方であり、理解を助けます。ただ、一方で世の中それほど単純ではないというのも事実だと思います。

    個人的にはディープステートや陰謀論、最近のマスメディアとSNSの二項対立は面白いとは思えど、メス込みがすべて悪でディープステートで、SNSが善でディープステートから逃れて本当の情報を出しているとも、到底思えません。またもや坂口安吾ですが「人間というのは、もっとインチキで、メチャメチャで、ワケが分からない存在」なのですから、単純化すればするほど沼にハマります。

    お互い知り合いの松岡君が、以前、ESGとかダイバーシティが流行るのは、悪い意味で平和で呑気な時代で、その後にたいていヤバイ時代が来る、というようなことを書いていて、その洞察力に舌をまいたことがあります。さきのコメントで書いたように、日本は八百万の神を信じ、人を徹底的に憎みきることができず、昨日の敵は今日の友としてつらっとしていられます。しかし、残念ながらそうではない国や民族も大勢います。日本はある意味で特定危惧種でしょうね。でも、それだから悪いとは言いません。むしろその特色を生かして、きちんと税金や社会保険を払い、良き隣人となっtくれるならば、あらゆる対立する宗教や民族がホンネを話に来れる国になれる気もします。なにせ、仏教と神道をくっつけて、クリスマスを祝い、ムスリムのためにハラール贖罪を一生懸命食品メーカーは開発する国ですから。お人好しと言えばお人好し、でも、そんなお人好しの日本を私は愛します。

    [赦す」というと、キリスト教(プロテスタントかカソリックかわかりませんが)の懺悔室を思い出します。自分の罪を小部屋で告白すれば神が赦してくれるというのも随分と都合の良い話だなあとおもうことがしばしばあります。ゴッドファーザーで、片手で相手を殺しておきながら、片手で神に祈りを捧げて赦しを乞うというのは、妙にユーモラスな感じがします。少なくとも、地震と大雨被害でいまだに苦しい思いをしている能登の方々は、「赦しを乞う」ことはしないでしょう。自然、八百万の神とはそういうものだと得心しているからです。

    乱暴な話ですかね(^^)。

  5. 私も実は、過去のコメントを読みながらあまり主旨は変わらんなと思っていたところです。
    ただ、一つ言い忘れたことが。
    今までのコメントでは私の事がいかにも反アメリカにに見えますが、実際は白黒はっきりしたアメリカ的考え方がわかりやすくて好きでもあります。特にビジネスでは日本的な決められない感じに辟易することが多いです。
    ただ、先ほどのコメントでもあるようにその白黒、善悪がはっきりしすぎて「悪い奴」を決めつけて十把一絡げにして差別したり「禁酒法」のようなそこまでやるか、と言うようなことがあり、それを利用する人も多いと言う事です。

    それでは。

    1. 確かに、昔を思い出すと、会議ひとつとっても、散々時間かけて、「じゃ、また考えよう」と終わって、唖然とすることはしばしばありましたよね。その点でも、善し悪しなのでしょう。

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