《 サッポロ 》
私が卒業した高校は、意図的なのかそうでないのか分からないが、卒業30年後に同窓会の幹事をすることになっている。僕は今年度が卒業30周年、この同窓会幹事(というか、お手伝い役)をさせて頂いている。
高校自体は札幌なので、同窓会の「本会」は札幌で、それとは別に東京で別日程で分会が開かれる。いつもは東京の会合が初夏に、札幌の本会が盆休み近くに開催されるのだが、東日本大震災のために秋に延期になった。
僕の実家はもはや札幌にはない。「帰郷」ということをしなくなって15年以上経つ。札幌には時折行くが、あくまでも仕事でのことだ。こういう機会でもないと個人的に故郷に行くことはない。僕は10数年ぶりに、初めてプライベートで札幌を再訪した。
出張で行く故郷は決して心地よいものではない。街は記憶の中の姿から大きく変わっている。思い出深い建物や店や野原や道の多くは見慣れないものだ。街というのは今、住んでいる人のためにあるものだと言い聞かせても、故郷であって故郷でない街で立ち尽くす自分は「異邦人」だ。
そんな異邦人モードの自分が変わったのは空港から電車に乗り、車窓からの景色を見た時だ。いつもは暗く、もの悲しい街の灯りが、甘く懐かしい。千歳、恵庭、北広島、野幌、新さっぽろ….。大学生時代にアルバイトで走り回ったことを思い出させる。
決定的だったのは札幌駅のホームに降りた時だった。風が吹く。懐かしい、「サッポロ」の風が。いや、風なんて吹いてなかったに違いない。それは単なる自分の心象風景なのだ。そうは分かっていても、こみ上げる懐かしさの中で僕は完全に24歳で札幌を出る前の自分に戻っていた。48歳の今年、ちょうど故郷を出て折り返し。小樽に向かう電車は呆然としている僕を残して、ホームを出て行った。
《 30年 》
故郷の匂いを嗅ぎたいがためにJRの駅から地下鉄二駅分を歩き、ホテルにチェックイン。テレビをつければ、今や地元テレビ局の看板となった後輩が天気予報を解説している。チャネルをザッピングすると、時折混じる大きな温泉プール併設が売りの観光ホテルの宣伝。父に何度か連れて行って欲しいとねだったが、一度も叶わなかった。家を建て、子どもを育て、オイルショック後の不景気にあえぐ貧乏商人の父には、叶えてやりたくても叶えられなかったのだろう。同じ立場になったからわかる自分がいる。
結局、テレビを消して眠ったのは夜明けの三時だった。北海道は朝が早く、もう白々と明るい。9時間後の12時には同窓会の手伝いがある。寝たような寝ないようで、わずか3時間。そして六時にはまた懐かしいチャンネルで道内ニュースを見ている自分がいた。
宿を出て会場に着くまでは正直なところが「恐る恐る」。今でこそ偉そうに息子に説教をするけれど、自分がしょうがない劣等生で、多くの恥ずかしい言動をしてきたことを一番知ってる人間に30年ぶりに会うこと。それは懐かしくもあり、怖くもある。「守るものなど俺にはないサ」などとうそぶいて生きてきた自分はもはやおらず、卒業写真に自信なげに写っている田舎の高校生である自分がいた。
控え室には30年ぶりの友人の顔があった。もちろん、全員など分かるわけがない。そもそもクラスや部活動が一緒だった奴しか在学中もつきあいがないのが普通だし、みんな立派なオジサンとオバサンだ。道ですれ違って気づくことさえないだろう。
なのにみんな、笑っていた。何がそれほど楽しいのか。あるのは自分たちの親がそうであったように、社会人として親として上司として経営者としての重い責任とやりきれない毎日があるだけなのに。何故にこれほど明るくしていられるのか。そう思いながら、あだ名でしか覚えていない隣の隣のクラスにいた友人と冗談を言い合う自分がいた。
《 縁 》
結局、同窓会は公式な同窓会を含めて五次会まで続いた。高校時代の恋の思い出を語る者、今している仕事の悩みを打ち明ける者、病気自慢・肥満自慢、そして志半ばで若くして逝った友人達の話。給仕をしてくれたアルバイトの若者から見れば「しょもない大人達」だったろう。唾棄すべき対象だったかもしれない。でも、僕らにも青春はあったのだ。実際にあったのだ。
けれど、それを彼らに語る必要も、説得する必要もない。私たちは30年間、なんとかかんとかやってきた。それで十分だ。そこには参加していない人間、卒業を待たずして逝ってしまった人間も含めて10クラス450人の450通りの生き方があり、それに対してだれもが敬意を感じていた。
札幌の夏はの朝は涼しい。五次会として向かったのは今人気だというラーメン屋だった。夜が白む中、17時間以上の闘いを終えたのは六人の友人。運送会社の社長に、IT研究所の所長に、通信会社の部長に、弁護士に、医療機器販売会社の部長に、自分。高校時代は殆ど交友関係が重ならなかった六人だ。
食べ終えた順番に外で出て、最後の一人が店を出るのを待つように閉店。薄野の街にはそろそろ夜ではなく、朝の住人達が歩き始めている。
そんな中、運送会社の社長がつぶやいた、「おれよぉ、同窓会なんてどうでもいいと思ってたけど、なんだなぁ、おもしれぇなあ。そう思わんか?」。もっとも「思い出」とか「同窓会」とかいう言葉とは縁遠い、昔は不良系一派だった彼がそう言ったときに、同期の中でも超優等生で今やかなり髪の毛が後退した弁護士がちょっとだけ頷いた。そして、締めでラーメンなんか食べたから妻にまた怒られるとボソリと言った。
今日はお盆、そして終戦記念日。いつもと同じく太平洋戦争関連の番組が流れ、高速道路はUターンラッシュで溢れ、そして吉田拓郎さんとと坂崎幸之助さんはまるで30年前、40年前、50年前と同じようにオールナイトニッポンでDJをしている。
僕はこれから、赤軍派とは何だったかを細かく追った名作漫画「レッド」の五巻目を読んで寝るところ。一見関係ないけど、すべてが何かの「縁」で繋がっていることを強く感じる。森恒夫にも青春はあったし、永田洋子にも青春はあった。そして、僕らにも青春はあったのだ。そして苦い経験や痛みをたくさん経験し、楽しいことや嬉しいことも数多く経験し、今に至ったのだ。
明石家さんまさんと大竹しのぶさんの間にできたお嬢さんは「いまる」さんというお名前だ。その意味するところは、「生きているだけで、まるもうけ。だから、いまる。」だとテレビで話しておられた。生きているだけで、まるもうけ、その通りだと思う。そして早く逝ってしまった奴らに僕は思いを馳せる。
「色即是空、空即是色」、有ることはないことであり、無いことはあること。生きていることと、死んでいることは、それほど遠い距離のものではない。死んでしまえばオシマイよ。でも、生きている時に多くの「縁」を大事にしたいじゃないか。
死んだ親父の七回忌である48才の旧盆、そんなことを考えた。