《 観光地は大混雑 》
ついにゴールデンウイークも終わってしまいました。次の国民の祝日は7月まで無いそうで、それを聞くと、月初にお小遣いを使いきってしまった中学生のような後悔がおそいます。もっとも消費サービス産業に携わる方にとっては、一山越えてほっと一息というご気分であると思いますが。
大震災により、みんなの心がザワザワとする中で、果たしてお出かけなぞするのだろうかと懸念していました。しかし、考えていたよりも人手は賑わったようです。我が家も家族にせがまれて中部地方に二泊三日の旅行に出かけたのですが、行く歴史旧跡のほとんどが入場制限という状況。特に長野の松本城は朝の10時半に行ったにも関わらず、「入場から見学終了まで150分」と係員の方に言われ、思わず家族全員でへたり込みました。
でも、世間の気持ちが徐々に平常心に戻ってきたようで、悪い兆候ではありませんね。色々と暗い報道が多いことは事実ですが、落ち込んでいても何も始まりません。
《 ハードロックに目覚めました 》
さて、このゴールデンウイーク、私の興味の幅が一つ広がりました。それは「ハードロック」です。「はぁ?、夏には48歳にもなろうって言うのに、何を今更言っているの」と失笑されてしまいますね。
兄が七つ年上で全共闘世代を思春期にリアルタイムで見ていたことに影響されたからだと思うのですが、彼の弟である私は何故か気づいてみると加藤和彦さんや吉田拓郎さんや南こうせつさんといった、「ジャパニーズ・フォークソング」の音楽を聴くようになっていました。今思えば、ロックは多くが洋楽ですから、英語が苦手だった私は無意識に敬遠していたのかもしれません。
そんなわけなので、数年前にとても大事な知人がロックギタリストの神様、エリック・クラプトンの日本公演にお誘いくださった時も、そもそもクラプトンさんが如何にロック音楽で重要な方なのかをよく知りませんでした。自分自身、「クラプトンモデル」と呼ばれるエレキギターを持っているのが自慢なのに、お恥ずかしい話です。
お恥ずかしいと言えば、ロックに関してもう一つお恥ずかしいことを今、思い出しました。
中学生時代に好きだった女の子と「交換日記」をしたことがあります。といっても、私が一方的にのぼせ上がっていたわけで、彼女にしてみると「可哀想だから、ま、卒業までだから、つきあってやっか」程度だったのでしょう(交換日記を始めたのは三年生の二学期後半でした)。彼女は英語が得意な先進的な人で、「将来、渡欧し、靴職人になりたい」という1978年当時としてはかなり凄い夢をもっていました。で、聞く音楽も先進的。もっぱら洋楽、特にプログレッシブロックと呼ばれる分野を聞いていました。
ところが私はドメスティックなフォークソングが好き。当時は「四畳半フォーク」などと悪口を言う人もいた「かぐや姫」のファンでしたので、音楽の好みは水と油。そんなわけで、彼女が書いた「ブリティッシュロック(British Rock)」という単語がわからない。すっかり、「プリティッシュロック(Prettish Rock→こんな単語はありません)」だと思いこみ、彼女から「いよいよ佐々木は馬鹿である」と思われたことをトラウマとして持っております。
《 米国1970年代の意味 》
そんな私が、何故に今更ハードロックなのかと問われれば、それは「ヒストリーチャンネル」というケーブルテレビのチャンネルで米国の1970年代を簡潔にまとめた番組を見たからです。
この番組、如何に1970年代というものが米国の政治経済、文化、そして国民の意識に変化を与えた時代であったかを、当時の映像とともに振り返るもので、なぜ1970年代がベトナム戦争から始まり、「サタデーナイトフィーバー」で終焉したかを検証するという面白いテーマでした。
二時間の内容を極く簡単にまとめるならば、「大義なきベトナム戦争+政治不信を招いたウォーターゲート事件+米国経済の低迷」が拝金主義と貧困化と享楽的個人主義を生みだし、その文化的な側面が様々な変節を経て、「若者が貧困化し、誰もヒーローになれない中で、土曜日の夜だけディスコでダンスのヒーローになれる」という映画「サタデーナイトフィーバー」(1977年)に結実したのだという内容です。
ちなみに1976年の「ロッキー」はそうした底辺の中からのアメリカンドリームを描いた作品であり、両方の映画ともジョン・トラボルタとシルベスター・スタローンという無名の若者の成功に繋がったという意味でも象徴的だと言えそうです。
一方、音楽としてはジョン・レノンのユートピア的な考え方で70年代が幕を開ける一方で、陶酔に入り込める大音量のハードロックが英国で芽吹き、それがビジネスとして米国市場で展開され、それはやがて1980年のジョン・レノンの殺害でますます混迷を高める。その意味で、1960年代までに夢見た理想主義の終焉と「不条理な混迷」の開始が重なったのが1970年代であると。
この番組、内容は独断的なものではあるかもしれませんが、歴史と社会背景と文化に密接な接点があるという意味で、非常に有益な番組でした。
《 歴史の偶然は歴史の必然 》
実は先月は中国の近現代史にハマっておりました。
ご存じのように、日本では様々な中国に対する見方が交錯しています。領土問題などでは中国の強行な姿勢に愉快ならざる印象を持っている方も多い一方、労働者人口ピークが2018年には訪れる国の経済がどうなるのかを固唾を飲み込んで見ている方も少なくありません。
だからこそ、自分なりの中国に対する考えを持ちたいと常々思っており、アジアンフリークである妻と中国の文化大革命に関するNHKのドキュメンタリーを見ておりました。そこで「大躍進政策」という言葉を知り、また「四人組」とは何であったのか、またそもそも何故に日中戦争は起こったのかという疑問を持ちまして、ネットで調べて見ました。結局、阿片戦争までさかのぼったのですが、その時に強く感じたのは「どの国もかろうじてギリギリの偶然のタイミングで近代化を成し遂げている」ということです。
いまでこそ日本は最初から「先進国」であるような顔をしていますが、明治維新や日清/日露戦争、そして二度の大戦の中、相当危ない綱渡りと僥倖で近代化が成し遂げられたことを痛感します。そして、韓国と北朝鮮、台湾、中国、ベトナム、インドネシア、シンガポールといった国々が時間軸が違うだけで、近代化の波に乗れたか乗れないかは極めてきわどいタイミングだったことを感じます。
それは逆に言えば、歴史のネジが一本違っただけで、日本が経済的に困窮している国になった可能性も、韓国の軍事独裁が続いていた可能性も、そして中国が退くに退けないイデオロギー国家になってしまっていた可能性も否定できないということです。つまり、歴史の偶然・歴史の必然を知ることは森羅万象に繋がるのだなぁ、と。
《 新しい音楽もまた歴史の必然 》
そういった意味で、米国の陽気なロックンロールがなぜユートピア主義に移行し、そしてハードロックという破壊的な陶酔に発展して至ったのかということも、また重要な歴史的背景があるということを知りました。
以前に「余談」で書いたように、作曲家の坂本龍一さんの「スコラ」という番組でジャズは「(1)黒人のブルース+(2)アフリカのリズム+(3)ラグタイム」が混じったものです。これとは別の発展過程でブルースがダンスミュージックと融合したのが、原始ロック音楽です。
ちなみに、ハードロックがもっと視覚的な要素を盛り込んだヘヴィメタルと呼ばれる段階に発展した時に、不幸にも日本ではその奇妙な視覚的なコスチュームの部分だけが注目され、なおかつ音楽的に玉石混淆であったバンドブームがマスメディアによって作られたことが、「ヘヴィメタル=色物音楽」という偏見が入り込んでしまったとのこと。音楽的にレベルの低いバンドは「ビジュアル系」という名前の元に、見た目だけ面白い方向に走り、ますます音楽としての価値が低いように社会に認知されてしまった。これはある種、「ブランディング」の失敗事例とも言えそうです。
さらに言えば、ビートルズやローリングストーンズといった初期ロック革命やディープパープルやレッドツェッペリンといったハードロック創始者、そしてヘヴィメタルの源流の一つと言われるブラックサバスも、すべて英国出身であるということは極めて興味深いことです。米国はロック音楽の市場として極めて大きいものの、独創性という点では遅れをとったということは、文化面では大英帝国のくびきから逃れられなかったということでしょうか。
《 限りない自由による不自由さ 》
お休みの最終日ということでまたもや長いメールとなりました。申し挙げたいのはひとつ、「すべての道は歴史に通ず」と。それがビジネスであろうと、音楽であろうと、政治であろうと、なんであろうと、過去の歴史の中から学ぶべき背景は常にあるのだということです。
そしてネット時代の今や、知ろうとする意欲さえあれば知るための入り口はほとんど無償で手に入れることができます。一方でそれは「限りない自由による不自由さ」を得たということでもあり、何に自分の時間を使うのかを個々人がせねばならなくなったということでもあります。「何でもあるけど、何にもない」とは、GMS(総合スーパー)についてダイエー創業者の故・中内功さんが1990年代におっしゃった言葉ですが、それに似た状態に我々はもうなってしまっているのかもしれません。