《 温度差広がる楽観論と悲観論 》
二月決算第一週、第二週と比べて第三週は大きな変化が出てきました。それは今後の消費や景気、そして日本に対する先行き感の温度差です。
まとめてしまうならば、「復旧から復興に移行することによる復興需要を背景にした楽観論」と「節電・節約、手取り所得低下に根差した悲観論」という対立軸、これが企業や経営者によって大きく差が開いてきたように思います。第三週(2010/4/11~4/15)は東日本大震災から一ヶ月経過したこともあり、各社の「震災影響の振り返りと見通し」について前週よりも明確にられ始めました。
《 復興需要に着目した楽観論 》
楽観論の根拠としては、まず第一に「復旧から復興へ」という流れが見えてきたことが挙げられます。メディアでも報じられているように、震災直後は救命救出が第一優先事項であり、次に生命を維持するための飲料水や食品に対するニーズ対応が緊急の課題でした。しかし、阪神淡路大震災でもそうであったように、ライフラインの復旧がかなり進みつつある中で、住まいが避難所から自宅に変化しつつあります。そうした中で、必要とされるものが住生活関連品や耐久消費財に移行しつつあります。たとえば小売業のホームセンターでは、災害対策商品が依然として販売量が高止まりしている一方で、掃除や後片付けのための用品が急速に売上を増している状況とのことです。
第二の根拠は原子力発電所問題の実態がわかってきたことがあります。レベル7という最悪水準の原発事故はもちろんネガティブです。しかし、人間を一番不安にさせるのは「水準」そのものではなく、今後どうなるかわからないという「将来の不透明度」です。よって、このまま収束しなければチェルノブイリ級の問題が生じうるし、それを念頭においた対応をせざるを得ないとわかったことが、逆に日本に住む人々達の腹をくくらせたと言えます(税金を納める立場として納得しているかということはまた別ですが)。
そして楽観論の第三の背景は、「今回の大震災を契機に自社も含めた日本企業が強くなる土台になり得るのではないか」と感じている企業や経営者が多いということです。たとえば電子部品、自動車といった日本の十八番であった産業が弱くなってきたことが近年クローズアップされていました。けれど、日本の部品産業がなければ手強い競合相手であった他国の同業他社も部品不足から減産せざるを得ないことが明確になりました。一方、日本企業の中には今回のことを契機に、より精度の高いビジネスモデルにアップグレードしていこうと考えた企業も多いようです。第三週で説明会をした企業には、第三次産業における「産業化推進」「研究開発活動」「地域的なリスク分散」の重要さをお話される経営者が多かったように思います。
《 消費者嗜好とセンチメントの変化からの悲観論 》
一方、悲観論の第一の背景として挙げられるのが、マクロから見た時の日本経済の暗さです。少子高齢化による労働人口の減少、社会保障負担増加、将来的な増税、そして国家財政のバランスシートの悪化が、今回の大震災でさらに加速するという不安は明快に否定できない問題です。すでに与党は子供手当の秋での打ち切りを発表しましたし、政府要人の発言のニュアンスとしてはさらなる国債発行と増税はやむなしという印象を与えます。短期的にも所得低下が予想される中、手取り所得が減少するであろうこれらの発表や発言はますます日本のバランスシートを悪化させると考えるのは自然でしょう。
第二の根拠としては、先々週の「新・サザエさん現象」でも書きましたが、節電・節約と震災経験によるライフスタイルの変化が挙げられます。被災地エリアの方にとってはまだまだ足りぬものばかりでありますが、直接的な被災をしなかったエリア、また被災をしても影響が軽微であったエリアでも、これまでの「過剰消費」が果たして自分を幸せにするライフスタイルなのかと考え始めた生活者が多く存在します。
事実、東京はすでに春に入り、これを書いている日曜日の19時前現在でも発電能力の73%しか電力が使われていません。にも関わらず、相変わらず温水便座の電源を切り、点灯する照明の数を減らしている人間がわたくしの同僚でも大半です。また、昨年後半からブームになっていた「断捨離」がバージョンアップし、単に捨てれば気持ち良いというだけではなく、必要なものの見極めをするという方向性を付加されています。若者層の「嫌・消費」の流れと相まって、この流れは新しい潮流として浸透する可能性があります。極端な発言であるにせよ、石原東京都知事の「飲み物は自販機ではなく、家で冷やせ」という言葉はこの流れと相似します。戦後アプレゲールの代表格である石原慎太郎さんが、現代の若者と同じ意見というのは奇妙な一致ではありますまいか。過剰消費を生み出すことが善であると考えていた産業は存亡の危機になるかもしれません。
そして悲観論の第三の根拠が日本産業のサプライチェーンの脆弱性です。これは楽観論の第三の背景と矛盾してしまうところもありますが、「かんばん方式」や「SPA」としてもてはやされてきた事業モデルのいくつかは、サプライチェーン内部の弱者に対するリスクの押しつけであり、根源的な新手法ではなかったと気づいた企業、経営者が多いように思います。お題目のように繰り返してきたSCMとは一体何をすることだったのか、それをするためには何が必要なのかということを考え直す中、やり方を再構築せねばならず、そのための時間をやり過ごすだけの体力が自社にあるのかということを見つめ直さざるを得なくなった経営者も多いようです。
《 この島国の「しぶとさ」 》
もちろん、残念ながら私は楽観論、悲観論のどちらが10年後、20年後、正しかったかを予想することはできません。「予想が当たらないササキ」として有名だった私としては、むしろわざと悲観論を唱えた方がよいのかもしれません(苦笑)。
ただ、楽観論、悲観論ともに共通しているのは、日本というこの国の「しぶとさ」です。
100年に一度のリーマンショックさえ超える(実際は100年に一度ではありませんが)1000年に一度の大地震と大津波が来て、瞬時に多くの命と財産を失い、原子力発電所のレベル7までの被害という状況にいながらも、3/11以降のこの国の呑気な様子は「何なんだ?」と、この国で生まれ育った私でさえ思います。海外から見ると、放射線の影響がどうなるかわからない中で、大規模な暴動もなく、毎日仕事をし、春が来て桜が咲いたと言って喜んでいるこの国の住民は「クレイジー!」としか表現のしようがないでしょう。
唯一の被爆国であることや、責任の在所をハッキリさせない曖昧さに慣れきっていることもその理由でしょう。しかし、何よりも日本で育った人間にとって「人生は不条理で、いくら文句を言ってもどうにもならないことがある」という、良い意味での諦観が埋め込まれていること、これが最も大きい要因のように思われます。そしてこの不思議な考え方が、日本という小さな国の背骨となる文化と「しぶとさ」を作り出しているように思えます。
大震災以降、なかなか気分が明るくなれず、しんどい日々が続いてきました。震災の報道を見続けて気分障害を起こしている方も増えていると聞きます。しかし、この国の人々はどんな不幸も、「しょうがないよね」で済ませてしまう「したたかさ」を持っているようです。オイルショックと1980年代の円高という不幸な事象で日本の製造業は世界的な競争力を増したことは周知の事実です。確かに思い起こせば、明治維新にせよ、太平洋戦争にせよ、この国を変えるのは「外圧」しかありませんでした。今回のような自然災害を「外圧」という言葉で表現するのは無理があるとは思いつつも、不条理な外部要因という意味では「外圧」です。
そう考えると、東京電力の現有発言能力を100とした時に、夏場のピーク需要が120とか130になるといって騒いでいますが、これを契機にとんでもなく変換効率の良い電力装置やエネルギー伝達方法が生まれたりするのではないかと密かに期待しています。それが原子力産業に変わる重電メーカーの収益源になったりしたら、これは痛快極まりないですね。
いかん、いかん。こんな風にわたしが楽観的になってしまうと、日本は不幸な方向に行ってしまいます。なにせ、僕の予想は必ず外れるのですから。気をつけなければなりません。「余談」だけのお話にしておきましょう。