《 竜馬がいく 》
深層心理というものは怖い物だとつくづく感じました。震災後、テレビは徹底的な自粛をまだ続けています。愚にもつかない番組が大きく減ったのは有り難い一方で、ニュースで毎日毎日、あの恐ろしい津波の映像と原子力発電所の現状を見せられるのはかなり辛い。気分が落ち込み、滅入った気持ちになるのは避けられません。9.11テロの後、米国では貿易センタービルが崩壊するあの映像を流すことを節制したという理由がわかる気がします。
こんな時は部屋の明かりを消して節電しつつ、読書灯だけをつけてカラリとした気分になる本を読むのが一番と、本棚の奥から引っ張り出してきたのが「竜馬がいく」。久しく読んでいなかったのですが、日本というものを考える上でも、また大河ドラマが終わったばかりで記憶も新しいことから、このやや長い小説を読み始めています。現在、文庫本での三巻目。
《 震災で変わらぬもの 》
今回の震災で、多くの海外の国から義援金や人的な援助を頂いています。有り難いことだと本当に思います。と同時に、何故に日本では暴動、略奪、治安崩壊が起こらないのかという驚嘆の声が上がっているというニュースを耳にします。正直なところ、「そうした声もある」という程度のことを過大にメディアが報道しているのだろうと思ったのですが、そうではないようです。やはり、日本という国とそこに住む人間の行動は今なお、不可思議に映るようです。
司馬遼太郎さんの本はいずれもそうですが、「竜馬がいく」にも外国人から見た日本と日本人に対する驚きがところどころに語り部である司馬さんのコメントとして記述されています。特に、自然災害に加えて多くの戦乱(要するに内乱ですが)が起こり困窮し、しかし忘れ、そして再び生活を立て直そうとする庶民の「しぶとさ」は行間から立ち上ってきます。そして、「サムライ」「ハラキリ」「ローニン(浪人)」といった日本語がそのままの形で海外(特に欧米)で使われたという事実から、この小さな島国の住民の思考回路が理解不能であり、そしてそれが今なお変わっていないことを証明しているように思えます。なにせ1966年に書き上げた小説ですから。
震災の被害総額は20兆円以上になることが日を追って確実になってきています。これは国家予算が100兆円弱の国において、まさに危機的な水準であることは言を待ちません。国債残高が1,000億円に迫り、少子高齢化が確実に進む中で、さらに電力が当面は回復しないという制約の中では極めて厳しい。国債はもとより、日本企業の社債格付け、為替相場、金利といった日本の経済的な評価が悪化するように思われます。
にも関わらず、日本国内のみならず海外においても、他国の通貨危機や財政危機に対する目線と日本に対する目線の違いを感じるのはなぜでしょう。そこには先述の日本という国への「不可思議」感がいまだに残っているからなのだと思います。今なお、日本は「不思議の国ジパング」であり続けているらしい。それはやはりこの国の住人の根底に流れる遺伝子が一風変わっているからなのでしょう。こればかりは震災でも変わらない部分です。
《 震災で変わるもの 》
一方で、今回の震災で変わることもあるように思います。
先日、知人と19時から新宿で飲む約束をいたしました。ただ、その日は早めにアポイントメントが終了してしまい、終業時間の17:10にはすでに新宿の伊勢丹界隈で二時間近い時間をどうやって潰そうか考える羽目に。まあ、こういう時は本屋で普段は読まない分野の本を漁ってみるのが一番。というわけで、大きな書店に入り、天文学やら人体科学やらの本を夢中で見ていたのですが、なんと閉店の音楽が流れ始めました。通常は21時まで営業しているお店なので、「立ち読みのしすぎで、待ち合わせ時間に遅れたか」と青くなって時計を見たら、まだ18時。都心の大型店は節電のためにも18時でお店を閉めるのです。
とはいえ、待ち合わせにはまだ1時間。他の本屋を探そうと外に出てビックリ。新宿のネオンはすべて消え、もう一軒の大型本屋も閉店、いつもは煌々と明かりをつけている家電量販店までが外見は真っ暗(営業はしていました)。おまけにJR新宿駅に向かう人人人の波。計画停電もあり、多くの会社員が家路についているのです。仕方がないので、携帯電話ででニュースなどを見て待ち合わせまでの時間を潰すことと相成りました。
知人と飲んだ居酒屋はそれなりの混み方ではありましたが、それはフロアの半分を閉めているから。しかも、当初の19時は開店している半分のフロアも満員に近かったのですが、20時には半分近くが空席となっています。驚きつつ、当方もお会計を締めて貰って帰路に。ところが、我が家に近い駅で降りると駅前スーパーは閉まっているものの、地元の居酒屋、中華料理店などは結構な客の入り。中には順番待ちをしているお店さえあります。
《 新・「サザエさん現象」 》
本屋から地元駅までの一連を見て思ったのが、頭に思い浮かんだのが「サザエさん現象」。とはいっても、日曜18:30のサザエさんを見る頃には翌日からの通学、通勤が思い出されて落ち込むという、あのサザエさん現象ではありません。波平さんが早々に定時退社をし、自宅の近くの駅の改札でマスオさんに会い、「君も同じ電車だったのか。どうだ、一杯?」と駅前のおでん屋に入って飲むというあれ。後でフネさんとサザエさんに怒られるんですが、要するに酒の飲むのは家の近くでごく親しい人と一杯というあのシーンです。
将来の見通しがつかないにもかかわらず深夜まで過酷な条件で働き、心理的・身体的な負荷がかかったまま病んだ人が増え、それでもネズミがネズミ車を回し続けるというライフスタイルがブッツリと強制終了されたことで、人間の本来的な生き方の価値とは何かを考える時間を与えられたのではないでしょうか。もちろん、これは東京電力管内の首都圏に限られる話ですが。
もちろん、このような状況は長くは続けられないでしょう。電力不足で経済活動が停滞すれば経済処遇のカット、失職という恐怖がさらに我々を襲うでしょうし、何よりも昨年の猛暑を考えると、夏の生命の危機さえ感じます。
しかし、少なくともバブルとバブル崩壊によって、我々の築いてきたものが一種の「砂上の楼閣」であったとわかっていたはずなのに、再び砂上の楼閣を築こうとしていたのだということを今回は気づいたような気がします。そして就職氷河期を経験した/経験している20代の若者、以前に書かせていただいた「ノーメーク女子」に代表される10代の若者は、人生の価値観の形成過程が明らかに私とは変わってくるのでしょう。そしてそれは必ずしも悪いことではないように思います。
数回前に「明らかに匂いが変わってきた」と書きました。執筆時には予想しなかった災害の発生によって、さらに「匂いの変化」つまり、「価値観の変化」が起こるのではないか、それが私の今の直感的印象です。