《創業者の持つ魅力》
 僕の調査対象である流通消費サービス業では、オーナーが創業し、そろそろ二代目、三代目に経営が引き継がれている時期です。いずれの創業者も非常に個性的、悪く言えばクセがあるのですが、魅力的であることは共通した部分。一方で、二代目、三代目になると、人を吸い寄せるような魅力が例外なく薄まってくるようです。

 「人たらし」とは決して良い意味で使われる言葉ではありませんが、創業者には「人たらし」の素質が備わっています。例え怒鳴られても、会社をやめちまえと激高されても、もちろん褒めても、「人たらし」の創業者の言葉には一言一言魅力が満ちあふれています。

《我が身に置き換えて》
 実は勤務先で、私も叱られました。47歳5ヶ月の私が叱られたことに、僕は正直に感謝しました。なぜなら、自分が気づいていなかったことだっからです。「これでまた一つ新しいことがわかった」と私自身は非常に納得していたのですが、しかし、さすがに一ヶ月間叱られ続けると最初の感謝が薄れてきます。そして、困ったことに、叱られたことを武器に攻めていこうという前向き思考が消え失せ、何もしないで縮こまって身を隠した方がよいのかもしれない….と後ろ向き思考、事なかれ思考に陥っている自分を発見したのです。

《まごころづくしの嘘》
 叱り方がうまい人というのが存在します。創業者は間違いなくその一人です。創業者に叱られると体が硬直し、直立不動になりますが、叱られたことを後で感謝するという話はほうぼうで聞きます。それどころか、叱られたことがなくなった創業者の良き思い出となって、しみじみと語ってくれる人にも大勢会います。私の後ろ向き・事なかれ思考に陥る叱り方と、こうした創業者の叱り方と何が違うのでしょうか。

 私は、それは叱っている人が「まごころづくしの嘘」をつける人なのか、そうでないのか、にあるのではないかと思っています。

 人は自分の子供には真剣に「まごころづくし」で叱り、怒鳴り、怒ります。それが親心。創業者の叱りにはそういった「まごころづくし」の叱りの精神があるように思います。それでいて、一方では「ここで彼を叱ることで組織の統率がとれる」という打算も持っています。それはある意味で「嘘」。この「まごころづくし」と「嘘」の表裏一体の怒りを表現できることこそが創業者の天性の能力なのではないでしょうか。

 創業者に怒られたことを懐かしむというのは、その「まこごろづくしの嘘」を叱られた側が感じ取っているからでしょう。叱られながらも、自分が叱られることは自分だけではなく、組織にもメリットがある、そういう納得感がある。そこに創業者にシンパシーをもてる。それこそが、創業者とそうではない人の大きな差であるように思います。

《イノチガケ》
 敬愛する坂口安吾の作品に「イノチガケ」というものがあります。そこもかしこも「イノチガケ」。歌手の武田鉄矢さん率いる海援隊は、この言葉をモチーフに「イノチガケのマゴコロだけが信じられるものなのさ」という歌詞を作り、捧げました。

 人生は不条理に充ち満ちています。「まごころ」と「嘘」は相反することではあるけれど、そうした中を仲間とともに生き抜くためには「イノチガケ」の「まごころ」をもって「嘘」をつき続けることしかないのではないでしょうか。その覚悟を持った人たちだけが、組織運営を出来るのかもしれません。「イノチガケ」「まごころ」「嘘」が表裏一体にくっついている、それが名経営者の資質であるように思います。そして、「イノチガケ」ではない、中途半端な正義感は組織にとってはむしろ害悪であるのかもしれません。

 どうでしょう、周りに「イノチガケのまごころづくしの嘘」をついてくれるリーダーはいらっしゃいますか?。

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