《 「草食系男子」と「ノーメーク女子」 》
 我が家では、特に何もなければNHKテレビが流れています。これは妻がそういう環境で育ったことと、僕自身も「NHK特集」や「若い世代」「YOU」(教育テレビ)といった番組が好きだったことからの習慣です。特にニュースに関しては19時も21時も必ずNHK。もしかすると、視聴料の元をとらねばという意識が潜在的にあるのかもしれません。

 さて、7日金曜日の21時もNHKのニュースを見ておりました。正月明けであまり大きなニュースがなかったらしく、いわゆる「ヒマダネ」みたいな時間つなぎのトピックが多く流れます。しかし、こいつが消費アナリストの興味を惹くようなものばかり。中でも驚いたのが「ノーメーク女子」と呼ばれる「メーク(=化粧)」をしない若い女性を取り上げた話題です

 一昨年から昨年にかけては、「草食系男子」という言葉が流行り、定着しました。物欲や性欲にガツガツしておらず、はんなり、のんびりした生き方をする若い男性を指す言葉です。悪くとれば「覇気がない」「軟弱」という意味でも使われるようになりました。

 で、今度は「ノーメーク女子」。その番組によれば、若い女性向けの化粧品売り上げはなんと10年前と比べると40%も減少しているのだそうです。男性にとっての自動車と、女性にとっての化粧品といえば、異性の心をとらえるうえで「必須アイテム」だった私にとっては吃驚仰天の話です。

《 親はギャップを感じているが 》
 テレビでは何人かの若い女性にインタビューしました。その「ノーメーク女子」達です。変な子たちかと思えばとんでもない、どの女性も穏やかな顔立ちできちんとした話し方のできる人ばかりなんですね。「美人」というのとは違いますが、「品がいい」「素直」という感じの女性ばかりです。で、ちっちゃな化粧ポーチを開けてもらうと、なんとファンデーション(=ほお紅)が一切入っていない。持っていないのだそうです。持っているのは基礎化粧品とほんの少しのメークアップ化粧品だけ。決して皮膚が弱いとかではなく、化粧をするという概念とは縁遠い感じなのです。

 「ノーメーク女子」が増えている理由としては、(1)生まれた時から不況だったのでお金がかかることはしない、(2)男性の心を射止めるために化粧をするという発想がない、(3)化粧をすることで自分が自分でなくなってしまうことがイヤ、などが解説されました。なるほど、どれもこれも頷くことばかりです。

 その「ファンデーション持っていない」と答えていた女性の母親は私と同世代で、若い時はバブルでそれこそ「イケイケ」でばっちりメイク、男友達と青春時代を謳歌していたようです。娘さんのインタビューに付き添っている中で、「私たちの時代には信じられません」とおっしゃっていました。なるほど、決して肌の老化などを隠す意味だけではなく、この世代以上にとって「女性が化粧をしない」というのはかなり希な考え方でしょう。

 そのトピックの最後は、その若い女性が「女子会」と言われる仲の良い女友達四人の飲み会で話をしながら楽しそうにしているシーンを見ながら、女性アナウンサーの方が「うーん、お化粧した方がいいと思うんですが」と苦笑いしながら締めくくるというものでした。「批判的」とまではいかないけれども、「今の若い者は….」といったニュアンスがあったように感じます。

《 したたかな変化対応の生き方 》
 しかし、私は別の感想を持ちました。それは「若い世代はしたたかだ」ということです。

 確かに異性の目を気にしない、物欲がない、無理をしようとしない若者たちには強烈な違和感を与えます。どうなっているんだよ、オイ、と誰かに話したくなるほど奇妙です。「理解不能」という感じでしょうか。

 けれども、それはきっと若い世代が生き残るうえで必要とされた環境に合わせた結果なのでしょう。要するに「変化対応を一番しているのは彼ら・彼女らである」と。逆に私なんぞは「変化対応が大事です」などと、毎週、この余談で書いているくせに、一番変化対応できていない化石なのかもしれません。

 彼らの生まれた時代はまさしくバブルからバブル崩壊の時期。物心ついたときから「失われた10年」が始まり、それが「20年」になろうとしている状況です。親も教師も政治も経済も社会通念も、すべてが悩みと迷いの中にたたき込まれ、自分たちも職が見つかるかどうかわからないという環境で育っています。その意味では、戦中派にとっての「団塊の世代」のような存在であるのかもしれません。異なる価値観と生活環境の中で育った「異星人」であるという意味で。

 では彼らがそうした、一見すると「悲惨な状況」の中で育って得た人生哲学は何かと言えば、「自分らしくあること」です。化粧をすることが自分らしさを失うように感じる女性、無理をして少ない賃金やアルバイト代金の中から自動車を買う必要はないと考える男性、そして従来は隠したくなる属性であった「性同一障害」や「同性愛」や「抑鬱障害」ということをオープンに話せる中で育った彼ら。良いか悪いかなんてことはわかりませんが、はっきりしているのは彼らの価値観は少なくとも今の環境に適応しているということです。

 少子高齢化する中で彼らが消費のマジョリティになるには少々時間がかかるでしょうが、しかし、いずれは彼らが主流派になることは事実。とすれば、単に彼らに批判的なスタンスでよいのだろうか、と考えてしまいます。

《 「郷ひろみ」であること 》
 そのニュースのあと、引き続きドキュメンタリーがありました。歌手の「郷ひろみ」さんが55歳になる今も、現役のエンターテイナーであるために信じられないような努力をしているということを追ったドキュメンタリーです。

 アイドル歌手として、またプライベートな生活で面白おかしい側面ばかりがワイドショーで取り上げられてきた彼ですが、「郷ひろみ」でであることを維持するために、大変な努力をしています。基礎体力作りのトレーニングに、歌のためのボイストレーニングに、過激なダンスに、そして舞台作りに。なんと55歳なのに、体力は20台後半。トップアスリートと同じレベルの身体能力だそうです。その努力は「禁欲的」をこえて、誤解を恐れずに言えば、「マゾヒスティック」でさえあります。私も妻も思わず画面に釘付けになりました。

 そうした彼に対して、ドキュメンタリーの制作スタッフが意地悪な質問。「いい年して何やってんだか、年相応になれよと思われたりしていないかな?っと不安になりませんか」。

 ずいぶんと失礼な質問だと思ったのですが、郷さんは一瞬沈黙したあと、一言。「20台らしさとか40台らしさとか60台らしさとか、そういうのはないんですよ。あるのは、自分らしさだけじゃないですか。」。その瞬間思い出したのが、さっきの「ノーメーク女子」です。55歳になってもアイドルであり続けるために24時間努力を続ける郷ひろみさんとノーメーク女子。言っていることは同じ「自分らしくあること」です。

 一方で、「自分らしくあること」は最終的な目標であり、それまではひたすら自分を殺し続けて息を潜めることが当然であると思っている自分の世代。もちろん、若い世代のように無邪気になることはできないのは当たり前なのです。しかし、そのこと自体が自分を縛り付けて、自縄自縛に陥っているのかもしれないな、そんなことを考えました。

 で、今日はここまで。オチはありません。

 ただ、「この国はもうだめだよ、おしまいだ」と嘆きながらも、どこかで「自分は逃げ切りセーフかもしれない」と安堵している自分と、「逃げることはできないから環境に適用し、自分らしさを得よう」と既存の価値観から脱却しつつある人たち。どちらが「したたか」なのかと言われれば後者ではないかなと感じた次第です。

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