《 成功体験なんか簡単に捨てられない 》
「成功体験を捨てよ」、「固定観念から逸脱すべし」とはビジネス書でよく書かれていることです。また、多くの成功した著名な経営者が、これらのことを強く主張しておられます。ということは、「成功体験を捨てる」ことが如何に大切であるかと同時に、如何に難しい事であるかを示しているようです。
私は一介のサラリーマンですが、なるほど、「成功体験」や「固定観念」のくびきから抜け出すことがどんなに難しいかということを、実は先日、自ら体験してしまいました。
《 理系か文系か? 》
何度かこの余談で書かせて頂きましたが、私には高校一年生の息子がいます。部活動・買い食い・居眠りにいそしむ学生生活をエンジョイしている彼が先日学校から持って帰ってきたのが、「理系・文系」「国公立・私立」選択のお知らせ。なんと、高校一年生の二学期中にそれらを決めなければならないそうです。随分と気の早い学校です。
で、息子の希望を聞くと、既に妻と話し合っていたらしく「私立文系コース」にしたいとのこと。「私立かぁ、コストがかかるヤツだ」とは思ったものの、特に反対する理由もなし。OKを出そうと思ったときに妻が話してくれたのがとても引っかかる話。そのコースだと数学は一年生で終了、二年生以降が数学の授業が無くなるのだと言うのです。私の学生時代は「国数英」が主要三教科で必修。受験にも必須でした。思わず、「ちょっと待て、それでいいのか?」とストップをかけました。
実は私には理数系教科に対する強い思い入れがあります。と言っても、得意だったのではありません。その逆、大の苦手科目だったのです。
自慢ではありませんが、数学はあまりにも出来が悪くて高校一年の時のテスト答案に「いい加減にしろ!」と先生から太字の赤マジックペンでのお叱りの言葉を頂きましたし、高校二年生の化学の中間テストは「2点」(20点ではない…)という点数をとったこともあります。定期テストにおける2点は、私の人生における「最低点数」です。
けれども、一方で、当時一緒にバンドを組んでいた友人は強烈な理数系教科の「虫」でありました。ギターを弾きながら彼はこんなことを教えてくれました。
・ 「数学は単に解くことができるのが面白いのではなく、『エレガントな解き方』を探すのが面白い」
・ 「『統一場理論』という理論では、磁力も電力も重力も同じ一本の公式だけで示すことができる」
・ 「相対性理論の応用はブラックホールの存在の予想であり、それは電波望遠鏡の開発で証明された」
などなど。
彼の言っていることは筒井康隆さんや小松左京さんといった日本SF界の巨匠の作品のバックグラウンドそのもので、大家達の作品を読みあさっていた私たちにとっては極めて興味深いものだっったのです。
教科としては理数系は苦手なままでしたが、その友人に教えられた理数系教科の奥深さはその後の自分のキャリア形成において非常に役立ちました。たとえば大学では近代経済学を選びましたので、ゼミでは「偏微分」を毎週やらされることになりました。社会人になってからは化学産業のアナリストとして「モル係数」を使って原油・ナフサからのコンビナート別の製造原価を推定するなどのことも行いました。高校時代に数学も化学もやっていなければ、相当苦労したでしょう。
《 「俺が正しい」 》
ところがところが。担任の先生は私の意見に強く反対します。聞くと、文系で数学や理科を選ぶと、通常の6時間授業ではなく、7時間授業になってしまうというのですね。息子は、(1)そもそも成績がそれほどズバ抜けて良いわけでもなく、(2)部活動で部長をやり、(3)しかも理数系科目が苦手で、(4)さらには受験で使わない科目を学ぶのだから、これは「無駄・無理・無謀」以外の何物でもないと。
先日ご紹介した、スティーブ・ジョブズ氏のスタンフォードでのスピーチでの「点(ドット)をたくさん打て。その時は一見役立たないように見えても、いつかそれらの点が線で繋がって役立つ時が来る。」という言葉に大いに感銘を受けた私としては、到底納得いかない話です。「そもそも若い時の学校は大学受験するためだけにあるわけじゃない」、「世の中は色々な面白いことで満ちあふれているのに何故自らその道を閉ざすのか」、「お前はE=mc2というのを知っているか」と、自分の体験談を延々と息子に説いたのです。
長時間にわたる説得(説教?)のおかげで、息子は「じゃあ、7時間目まで頑張ってみるよ」と言ったので、わたしは「よろしい、これで俺の経験が息子の人生に生かされたわい」と至極満足していたのです。
《 「俺は正しい…よね?」 》
とはいえ、自分の選択が正しかったことは誰かに話して同意してもらいたいもの。そこで、私は何人かの友人知人に、この件を話してみたのです。皆、教職や研究職に就いていたり、同じ年頃の子供を持ったことのある人ばかりです。多分、自分の考えを支持してくれるにチガイナイ。
ところが極めて反応が悪いのです。「そうだよね、言いたいことはわかるよ。間違ってはいない。でもなぁ….。ま、やり方は色々だから。」と、かなり奥歯に物が挟まって言い方ばかり。
信頼おける友人知人の反応が共通であることに不安になってきた私は、プロ中のプロである学習塾の塾長(=社長)に自分が間違っていないことを確認するためにお話しを伺いにあがることにしました。この方は、私が過去に調査研究させていただいた学習塾の中で最も素晴らしい授業をする塾を経営していらっしゃる方で、大学四年間を学習塾講師のアルバイトに捧げた私にとしては神様のような存在です。僕は妻を引き連れて意気揚々と本社に伺いました。
で、結果は……….やんわりと、しかし、キッパリと「考え方がずれている」と指摘されました。驚き・桃の木・山椒の木。呆然とする私と横目に、妻は隣で「してやったり」とばかりに溜飲を下げています。私は何故なのかを色々とお聞きしました。そして、唸り、黙って腕組みをして俯いてしまいました。
理由は簡単。要するに私は自分の人生における「成功体験」から来る「固定観念」を息子に押しつけているだけだったのです。「俺は理数系が苦手だったけど、素晴らしい友人が居て理数系への敬意を捨てなかったから、後の人生に役立った」、と。
でも、息子が僕と同じような人生のプロセスを経るかどうかなんて分かりません。いや、多分、確率論から言えば、限りなくゼロに近いでしょう。僕は北海道の生まれ育ちだけど、息子は関東の生まれ育ち。北海道ではかなりの数の国公立大学がありますが、関東では私立大学の方が圧倒的に多い。おまけに、私は昭和38年生まれの共通一次世代ですが、彼は平成生まれの共通テスト世代。丸っきり環境が違います。
ゼロに近い確率のものを親という立場で押しつける、こいつは第三者から見れば、厄介でお節介な話以外の何物でもありません。そう、見事に私は「成功体験に頼る」という「やってはいけませんよ」ということをやってしまっていたわけです。しかも、これが息子への愛情であり、善意であり、親切心であると心から信じて疑いませんでした。「自分が間違っているかもしれない」とは片鱗も考えず。うーん、先週終わった「龍馬伝」風に申し上げるならば、「まっこと、おかしなハナシぜよ!」、です。
《 成功体験を捨てるための「仕組み」 》
さて、いつもの「余談」に戻りましょう。
「成功体験を捨てる」のは極めて難しいことだと身に沁みてわかりました。多分、殆ど不可能と思われます。なんとなれば、「自分は自分の人生しか知らない」からです。そして「何事も自分の体験や経験を抜きにしては語れない」からです。
今なお経営者として企業を存続させていること、今なお自分の職があること、そして今なお生きていること自体が「大成功」です。明石家さんまさんも仰っています、「生きてるだけで丸儲け」と。なのに、そこに至るまでの経験や体験を捨てろと言われても、それは無理な話。
でも、捨てない限り、次の世代に遺伝子を継ぐことはできないのも、多分事実です。無限の数の「場合の数」が経営にあるのですから、無限の数の「違うやり方」を発想できるようにしておくことが、遺伝子を継ぐ最善のやり方と思われるからです。
しかし、ベースになる体験や経験は自分の人生しかない。でも、あえてそれを否定しなければならない。成功した自分の人生を否定することが、次の世代の成功に繋がる。この相反することをどう融和させて自分の中に落とし込むか。これはもう哲学、宗教の世界ですね。「我考える、思うに我アリ」、「色即是空、空即是色」、「諸行無常、生々流転」。そう考えると、多くの経営者が宗教的な世界観を持つのは当然のように思えます。
先週の「余談」で、「人材育成プログラムは無駄である」と書きました。「野心家しか企業の遺伝子は継げないのだ」と。しかし、自分のマヌケな経験を踏まえるならば、次の補足をしなければなりません。「この野心家とは、創業者の精神を理解しながらも、そのやり方を永遠に否定する『仕組み』によって生み出され続ける」ということを。
そういった意味では、直接的な人材育成プログラムは無駄であるかも知れませんが、「否定の仕組み」を用意することは大変に重要だと言えそうです。「自分は間違った方向性を向いているかもしれない」と自己否定できる繊細さを持ちながら、「突撃!」と力強く言える厚かましさ、図々しさを持つこと、これこそが「望まれる人間像」なのでしょう。数ヶ月前にマイブームであった、「確信犯」という言葉の意味がここで自分の中で繋がっているところであります。
さて、文中でも書きましたが大河ドラマが最終回を迎えてしまいました。数年前の大河ドラマ「新撰組!」の脚本を担当された三谷幸喜さんが新聞の夕刊でこのようなことを書いておられました。「坂本龍馬はあまりにヒーロー過ぎるので、どうやって描くかを普通は悩む。しかし、今回の大河ドラマでは徹底的にヒーローとして描くことで制作陣は腹を決めた。これは勇気ある決断である。」と。
史実と違い過ぎる挿話の多さや、これまでとは違った感じの映像のため賛否両論があった「龍馬伝」ですが、それは事前にわかったうえだったのですね。そう考えるとNHKもまた「確信犯」。今日の成功体験の話とよく似ています。