《 自分より優秀な人材は欲しくない組織 》
先週の「余談」を書いた後も、「企業の遺伝子を継ぐ後継者をどう残すのか」という課題について依然として考えています。勿論、正解などないのでしょうが、多くの角度からの視点を持つことは非常に自分にとって重要な気がしています。
そんな中、ある事業会社の方と少しじっくりお話しする機会がありました。当然、お話しは後継者問題の議論になりました。その時に開口一番に彼から頂戴したのは、「後継者って育てられるものですかね?」という純粋な疑問と、「佐々木さんは自分よりも優秀な人を本当に育てたいと思います?」という質問。「おぉ!?」と驚き、ひるみましたが、しかし、なるほどこれは本質的かつ深遠な質問だと痛感しました。
私の職種は調査研究という多少毛色は変わっているものの、所詮は宮仕えのサラリーマンでしかありません。部下を育成し、その能力を引き上げることが使命の一つであるため、その点は一所懸命にやっております。しかしながら、もし自分の地位が部下によって侵されることが明確にわかっている状況で部下を育てて、自分の地位を明け渡すかと言えば、それはできない相談でしょう。私は私の生活と地位と既得権益を守りたいと自己防衛に走ることはほぼ100%間違いがない。
私がそういった返答を返したところ、彼は「そうですよね。ということは、世の中の企業に存在する全ての後継者育成プログラムとか、人材育成プロクラムとか、人材トレーニングとかは全く無駄だという結論になりませんか?」との切り返し。うーむ、これはこれは。誰もが思っているけど、絶対に同じ勤務先の人間には話せない痛いところを突かれました。確かにこれは間違いのない真実であり、ホンネ。極論を申し上げれば、「タテマエとしては教育プログラムは企業に必要ではあるけれども、それで後継者や優秀な人材を育成できるとは経営者はゆめゆめ思っては居ないだろう」というのが二人においての共通の結論となりました。
《 「後を継ぐ者」は「野心家」である 》
では誰が後継者となるのか?。多分、育成された者ではなく、「今のやり方ではダメだ」と考える「野心家」であることが求められるのでしょう。
育成している人間が「自分よりも優秀になられては困る」という既得権益を守っている人間である以上、その人間以上の人材は絶対に育成できません。であれば、そういった組織を破壊する「野心家・革命児」が存在しなければならないでしょう。しかも、単に破壊すれば良いというアナーキストではなく、そもそもの企業の創業の志を知りながら、既存の仕組みを破壊できる人間でなければなりません。アナーキストでは企業自体を否定してしまうので。
ところが大きなジレンマがここで生じます。そんな「野心家」を普通の企業であれば放置はしない、ということです。多分、そういった人間は人事評価では大きく減点されるでしょうし、企業の主流ラインには就くことはほぼ不可能です。つまり、企業の中で存在を許せない人材が経営承継には必要になるというジレンマがつきまとうわけです。
これを解決する方法は多分二つのケースでしょう。一つは企業が存続の危機に陥った時。そしてもう一つは、絶対権力者がそのその「野心家」を認めた時です。
特にオーナーは株式公開企業であろうと、非公開企業であろうと、遺伝子を作ったものとして絶対的な存在です。そこがサラリーマンと完全に違うところです。自分を自分自身でクビにすることはありませんので、「野心家」として排除される可能性は殆どありません。また、何が遺伝しであるかを論理的には説明できなくても、直感的には理解している。多分、それがどんな国、どんな産業であってもオーナー企業というものが存在する理由なのだと思われます。
《 「異質」であること 》
ここで更にこの話を分化したいと思います。ひとつは「異質」ということ、もうひとつは「設備装備率」です。
実は「異質」ということに関しては、私の尊敬する友人である大学の先生から提示された課題でした。「異質力」という言葉が「日経情報ストラテジー(2005年12号)」の中で触れられており、佐々木はそれをどう思うかという問いを投げかけられたのです。あまり彼の素晴らしい論文を私の駄メールで紹介するのは営業妨害のようで気が引けるので、エッセンスだけを申し上げれば、
「『異質力』というのは、異質であるということを続られるという能力と、異質であることを受け入れられる能力に分けられる」
ということです。
なるほど、「野心家」とは「異質」です。そして組織は組織維持のためにその「異質」を排除しようとするのは当然です。ウイルスに対する免疫作用のようなものですね。しかし、そうした免疫の攻撃に耐える「異質力」を持ち、なおかつ、あえてその「異質」を受け入れることができる企業こそが、実は遺伝子を受け継いでいけるのだという非常に興味深いパラドックスがあることに気づきます。
とするならば、企業が大きいことによる「スケールメリット」とは、強い購買力を持ったり、強い資金力を持つという良く知られた効果だけではなく、そうした「異質」なものが多く存在する可能性が高くて、なおかつ受け入れる(または受け入れざるを得ない)仕組みをもっているということにもあると言えないでしょうか。代表取締役の数はせいぜい1~3人ですから、100人の企業よりも1,000人の企業、1,000人の企業よりも10,000人の企業の方が「変なヤツ(=異質なヤツ=後継者になり得る者)」が存在する絶対数は多くなります。いや、むしろ、購買力や資金力よりも、こちらの方が遙かにスケールメリットの本当の意味があるような気がします。
《 「労働集約」を本当に「装置集約」に変えているか? 》
次に「設備装備率」です。よく消費流通サービス産業は「労働集約的産業」であるため、オーナー企業が強い求心力を持つと言われます。では、「労働集約的」ではなく、「装置産業的」、つまり「設備装備率」が高い産業はオーナー企業である可能性は低いのでしょうか?。
はっきりと低いか高いかを示すデータは持ち合わせていませんが、少なくとも自分の素材産業の担当をした経験から言えば、装置産業はオーナー系であるかないかはあまり企業の経営承継には問題となってこないように思います。オーナー系である企業もありましたし、丸っきりのサラリーマン社長系である企業もたくさんあります。そして企業の遺伝子は経営のスタイルと言うよりは製品そのものや、製造技術、研究開発というとことで重要になってきます。
では「装置産業的」消費流通サービス業は存在しないのでしょうか?。いえ、あります。大手ファストフードは装置産業的ですし、有名なイタリアンレストランチェーンの経営の考え方は「理系外食」と言われるほど装置産業的です。卸売業も物流とかクロスドッキングなどを考えると装置産業です。一方、小売業はなるべく労働集約部分を装置産業に変えたいと願って来つつも、日本という国のサービスへの要望の特殊性か、最後の川を飛び越え切れていないように思います。
《 「既得権益者」を守る土壌を作る罪人は誰か 》
これらのことを考えると、「企業が存続するための後継者を残せる企業」の条件とは、(1)企業規模が大きいこと、(2)ふたつの意味での「異質力」をもつこと、(3)労働集約を装置集約に変えるアイディアを不断に生み出す努力をしていること、の三条件であると言えるのでは、というのが現段階の私の意見です。
相変わらず「龍馬伝」の話で恐縮ですが(今日、これから最終回です)、土佐の山内容堂が「大政奉還の建白書」を書いてくれるようにと坂本龍馬から直訴されたときに、彼が言った台詞が忘れられません。「侍も大名もなくなった後の日本に何が残るのか!?」。それに対して龍馬は「日本人が残ります。外国と堂々と渡り合える日本が残ります。」と答えます。そして容堂は建白書を書くわけですが、龍馬も凄いけれども、建白書を書いた山内容堂はもっと凄い。彼は「異質力」の価値を認め、その力を生かす時機をじっと待ち、そして、その「異質」が自分の既得権益を全て失うことを覚悟して建白書を書くわけですから。
そう考えると、昔からある「食客」や「居候」という制度を富と権力のある者がなぜ置いていたのかということがわかる気がします。彼らは自分の遺伝子を継ぐ者は「異質」からあると直感的に理解していたのではないでしょうか。であるならば、、「無駄なことはすべてやめてしまえ」と言う今の株式市場や投資家やアナリストやマスメディアというものは、大きな勘違いをしているのかもしれません。そして勿論わたくし佐々木自身も、イノセント(無知)にそういうことを言っていた時期があるわけでその罪は消えないでありましょう。「既得権益者を排除せよ」と言っておきながら、実はそれと反対の土壌を作りあげることに荷担してきた罪人であったという原罪を認識し、反省をしなければならないと思う次第です。