《 客を甘やかすのは、もうやめませんか? 》
この一週間、偶然ですが、何度も非常に重いテーマを考えなければならない場面に何度も遭遇しました。それは「日本の消費産業のサービスのきめ細やかさは本当に付加価値を生んでいるのか、それとも単に消費者を甘やかしているだけなのか?」という疑問です。そしてそれは同時に、「もし後者なら、そのツケとして相対的に低い経済処遇に甘んじなければならない日本の小売や外食産業で働く人々は『搾取』されているのではないか?」ということでもあります。
前にもこのメッセージで触れましたが、残念ながら日本の小売、外食業は完全なオーバーストアと言えます。それは国民一人当たりの店舗数や産業の付加価値生産性から定量的に実証できますし、また定性的にもこの低価格戦争は行き過ぎではないかと感じている業界人が多いことからも立証できるでしょう。経済学を持ち出すまでもなく、「需要-供給バランス」の崩れが価格競争の最も大きな要因のひとつであることは常識です。客単価や一品単価の値下がり分を、顧客数や買上数量の増加でカバーできずにトータルで成長できないならば、そのやり方は少なくとも「マクロ的」には間違いと言えるでしょう。
《 消費産業は従業員を本当に大事にしているのか 》
もちろん、こんな書生くさい意見は一生に付されることを承知で、今、これを書いています。「佐々木さん、アンタ、おめでたいねェ」、そんな冷ややかな声も聞こえてくるようです。企業経営では短期の損失に目をつぶっても、長期の顧客支持を優先しなければならない、いわゆる「損して得取れ」は商人の基本中の基本です(私も商人の倅です)。また、店舗の供給超過だけではなく、東アジアを中心とした開発輸入が容易になっていることも安い価格の商品を販売できる背景になっています。短期の収益だけしか見ない世間に対して多くの消費企業が嫌悪感を感じていることは重々承知しているつもりです。
しかし、あえて問いかけたいのです。
本当にサプライチェーンを構築している企業であるならば宜しい。けれども、現実には川上ベンダーの商品開発力と調達力に依存しきっている企業が多い現状の中で、本当にこんな状況が続けられるのでしょうか。実際、各地の色々な状況を見て回ると、川上ベンダーでさえ「(度重なるリベート要求や協賛金要請に)もう勘弁して欲しい」と思っているところは多数ありますし、彼らが与信に対してさらにシリアスになっているのはこの半年~一年のはっきりとした変化です。
そんな状況であるのに、不思議とギブアップする企業はいらっしゃいません。むしろ、「ウチはまだまだ大丈夫、元気!」と拡張の意志を示していたりします。全員が全員生き残れないのは明らかなのに、全員が意気軒昂というのは、まるで遠くから崖に向かうネズミの行進を見ているような気分になります。
日本でなければ、こういう状況になれば「もう自分の出番は終わったのだから、後進に道を譲って、俺はのんびりしよう」と思う経営者が一人や二人出てきてもおかしくないのですが、不思議とそういう方は出てきません。株と同じで、企業も必ず価格の高い局面があります。それを逃してナンピン買いをしているうちに、ずるずると損失がたまって最後は投げ売りとなりますが、それにも似ていると言えます。経営を移譲しない理由を時々お聞きすることがあるのですが、多くの企業経営者は「従業員を大事にしているからだ」とおっしゃいます。しかし、そのことがかえって、従業員にとって迷惑であり、国益にとってマイナスになっているかも知れないということを全く疑うことがないという無邪気さにただただ私は頭を抱えるのです。
《 対価を払わぬ消費者天国、ニッポン 》
何も私は自分の仕事を作りたいがために、また、金融業の都合の良い言い訳を作るためにこんなことを書いている訳ではありません。わたしとて、日本のきめ細やかなサービスは世界でも誇れる、トップクラスのものであるということには疑いはありません。どんなリーズナブルな居酒屋に入ってもそこそこ美味しい料理を安い値段で飲食できて、しかも丁寧な応対をしてくれる。また、コンビニに入れば立ち読みをしただけの客でも(注:私はしませんが)、「ありがとうございます」と頭を下げる日本という国は消費者天国でしょう。
しかし、それに対する対価を本当に消費者は払っているのでしょうか?。一品270円オールの居酒屋にも、客単価5000円のバーにも、一人前15000円のディナーを食べるレストランにも全て同じレベルのサービスを求め、それが満たされないときは「モンスター顧客」とも言うべきような悪口雑言を投げつけるこの国の消費者は、実は甘やかされているだけなのではないかと。そしてその甘やかしのツケが、実はこの産業の付加価値率の低さ、つまりは従業員の経済処遇の低さとリンクしているならば、これはまさしく「現代版女工哀史」なのではないかと思うのです。
《 投資家教育同様に消費者教育を 》
金融商品の運用においては、「投資家教育」という言葉が存在します。つまり、運用する方がプロなだけではダメで、運用を任せる側が真剣に勉強しないと、お金の運用を委託するヒトと運用するヒトが長期にわたってハッピーな関係は続けられないという考え方です。特に最近では401Kと呼ばれる自分で運用商品を選ぶ年金制度が多く導入されていますので、この投資家教育の重要度はますます上がっています。ただ、残念ながら、なかなかこの真意を理解して貰うのは難しい。なぜならば、日本ではお金の運用というのは郵便局と銀行で預金することしか運用をしたことがないからです。まだまだ日本の投資家教育は始まったばかり。でも、運用するプロも真剣、運用を任せるヒトも真剣、そういう世界を作らないとお金の運用は永遠にギャンブルの範疇を超えられないでしょう。
消費者教育も同じではないでしょうか。安全で安心なものを食べたければ、ステキで長持ちする洋服を買いたければ、これこれのコストはかかるのだという最大安定ラインを示した上で、自分の生活レベルに会わせた消費生活をどうするのかということを、そろそろ日本でもきちんと伝えることが必要であるように思います。小売や外食も真剣勝負なら、消費者も真剣勝負。それでこそ対等ですし、産業の付加価値も生まれるでしょう。
《 「できないことは、できねぇ!」 》
企業経営の話と消費者教育の話をごっちゃにしてしまって申し訳ありません。しかし、私の頭の中では表裏一体であると思っています。他社が真似できないバリューを生み出し続けていける「何か」をもっている企業であれば堂々とお代を貰えばいいのです。また、対価以上のものを求める客には「それはできない」とはっきり言えば良いのです。そうしてこそ、日本の消費産業が世界にも打って出られる価値を持ってくるのではないでしょうか。
客には八方美人で、ベンダーと従業員から搾取して生き残るのが生き残りであるというのならば、国益を損なうだけです。いっそギブアップして、経営からリタイヤして、他の元気な人にやって貰った方が従業員もベンダーも、そしてもしかしたら顧客もハッピーなのではないでしょうか。
前々回、「ゆでガエル」ということを書きましたが、どうもこの国は全員で「ゆでガエル」になろうとして一丸になっているように見えて仕方ありません。できるものはできる、できないものはできない。それを誰にでもはっきりと言っていくことが、部分最適を全体最適に持っていく道であるように思うのですが。