《 大河ドラマは現代を写す鏡 》
「龍馬伝」、相変わらず食い入るように毎週日曜日に見ています。大河ドラマの内容は、常にその時の日本の情勢とつながっているように思いますが、それは多分、視聴率を意識して作り込まれているのでしょう。しかし、ここのところの「龍馬伝」は単にそれだけではなく、かなりの迫力と普遍性を持って、現代日本の問題点とリンクしているように思えてなりません。もしかすると、まさしく日本は大きな選択を迫られているのでしょう。
《 第一次「ゆでガエル」とその消滅 》
最近、「ゆでガエル」という言葉をよく使うようになりました。懐かしい言葉です。正確には忘れましたが、1998年に桑田耕太郎先生と田尾雅夫先生がお使いになった頃に一般化しましたので、ITバブルを挟む1990年代後半から2000年代初頭にかけて流行った言葉ではないかと思います。
言葉の意味はご存じのように、「良い湯だな、とばかりに蛙が組織や産業のぬるま湯につかっていくうちに、段々お湯が熱くなって、そのうち茹だって死んでしまいましたとサ」という多分に寓話的な話です。これがバブル崩壊の影響をとりあえず乗り越えた日本の企業が、「やれやれドッコイショ」と風呂に入っていることに似ており、なおかつ殆どの企業が対処療法だけで根本的な解決に取り組んでいなかったことに警句をならしたものでありました。
幸いなことにというべきか、不幸なことにというべきか、その後のITバブルやエンロンにおけるインサイダー事件、そしてこれらを受けたコンプラインスの強化やガバナンス経営の強化の必然性を受け、日本の産業企業は「ゆでガエル」を脱することができました。日産におけるゴーン社長の就任などがその始まりではなかったかと思うのですが、それを受け入れる日本はウルフルズが歌う「明日があるさ」に見られるように、疲れ切りながらも明日は何かがよくなるだろうというポジティブ志向であったと思います
※歌詞の一部
「会社を興したヤツがいる、会社に残る俺がいる、焦ることないさ、焦ることないさ、自分に言い聞かす、明日がある、明日がある、明日があるさ」
「新しい上司はフランス人、ボディーランゲージも通用しない、これはチャンス、これはチャンス、勉強しなおそう、明日がある、明日がある、明日があるさ」
《 現状を見つめる 》
しかし、それから10年経った今の日本はいかがでしょうか?。
・ 「回転差資金があるから潰れないよ」とぬるま湯に浸かっているGMS、SMを、卸・メーカー・地方銀行は冷徹な目で見始めました。もしかすると、何らかの形で後ろから刺すつもりかもしれません。
・ 直間比率の見直し・消費税の見直しは、高齢化社会が進む中では絶対的な課題であることは20年前からわかっているのに、短期的な人気取りしか考えない政治家どもは選挙の度に言うことを変えてきます(それを選ぶ国民も愚民ですが)。
・ 日本が発行している国債の金額は天文学的な数字に達しているのに、一部の識者は「国債を買っているのは国内の日本人であるから問題はない」と言います。ではその日本人が自ら保有している国債の権利を放棄してくれるのでしょうか?、それとも「徳政令」を出して日本政府は放棄させるのでしょうか?。言うまでもなく間違いなく、これ幸いとスペイン、ポルトガル、ギリシャに向けているのと同じ視線を日本に向けるでしょうし、その時はEU全体がその方向性を後押しするでしょう。「イジメ」は別の「イジメ」の対象者を見つければいったんは解決するからです。
・ 日本の大手電機メーカーは素晴らしいプロダクツを作る自信はあるし、実際の性能も負けていないと言います。しかし、では何故ソフトバンクの通話エリアが狭く、おまけにiPhone4は電波受信に問題があるのにiPhoneにそしてiPadに日本の消費者は殺到するのでしょうか。なぜ、彼らはソニーのVAIOを買わないのでしょうか。電波状況では極めて安定しているドコモのスマートフォンを使わないのでしょうか。
《 ゆでガエル、再び 》
答えはひとつであると思います。「日本は再び、ゆでガエル化」しているのでしょう。しかも、相当早いスピードで。誰も百貨店で買い物をすることは合理的ではないと思っているし、誰もドコモのスマートフォンよりもiPhoneの方が本能的に惹かれると思っているし、誰も日本の政治家は自民党だろうと民主党だろうとみんなの党だろうとあてににはならないと思っているし、誰も日本が隆盛を盛り返すことはないとわかっている。
もちろん、日本には「諸行無常」の哲学が体に染み付いており、今の隆盛が永遠に続かないとはわかっているでしょう。また、欧米主導の市場経済があちこちで歪みを起こしており、やがてそれらがさらに拡大するのではないかという半ば心配、半ば期待を持っていることも事実でしょう。
しかしながら、それと自分達が自分達をより高めていく、より正しいと思われる道に向かっていくという努力をしないで、のんびりとお風呂に浸かって、茹だって行ってもいいやと自暴自棄になることは根本的に意味がちがうのではないでしょうか。
多くの産業企業を拝見して思うのは変えることの難しさです。今までそれで旨く進んできたことを変えるのは生半可ではないパワーがいります。それはよくわかる。特に創業者や長く同じ企業の価値向上に携わってきた人々には、「変化」というのはそんな口で言うほど生やさしいことではない。だからこそ、何らかの不連続線を入れるべきであると佐々木は提唱したい。
不連続線は決算期変更であるかも知れませんし、経営と所有の分離であるかも知れませんし、ホールディングス化ではない企業統合であるかもしれないし、事業所の国外移動であるかも知れませんし、楽天のように社内公用語を英語にすることであるかもしれません。とにかく何か、「これはこのままではやっていけんぞ」と企業に携わることをして、より高い領域に足を踏み込まなければ、今回の「ゆでガエル」で茹だって死ぬスピードは前回の2-3倍以上である分、危険度は極めて高いと思えてなりません。
《 闘争を!(全学連みたいですが) 》
日本には素晴らしい文化と伝統と技術がある。それはわかっている。しかし、だからこそ、今、それらを守るためにすべきは「檻の外から虎をつつく」ようなやり方ではなく正々堂々と霞ヶ関なり、永田町なり、また従業員なり、取引先なり、顧客なりに対峙すべき事でしょう。その腹の据わり方こそが日本の「ゆでガエル化」を加速するか止めるかがきまるのではないでしょうか。
《 ぬるま湯から出て、回りを見渡そう 》
先週、そして昨日の「龍馬伝」まことに見応えがありました。「日本を変えねばならない」と思う若者が多く死んでいき、そしてまた違う若者達が出てきます。そして多くの年長者は抵抗勢力でありますが、中には若者を育成し、教育し、育て、支援していく人も大勢いる。「日本人同士で喧嘩しちょる時じゃないがじゃ!。まっことの敵は誰ぜよ。日本の内輪もめを喜んどる異国じゃぁ!」という龍馬の叫びは、理屈を超えて心を打ちます。
唐突ですが、昨日、東京新宿の住友ビルにある「平和祈念展示資料室」を妻と見てきました。沖縄、知覧、阿見、大阪といった太平洋戦争の色々な資料館、博物館をみてきましたが、ここもまた心が重くなる展示でした。恩給欠格者、シベリア抑留者、大陸などからの引き揚げ者への十分な補償が出来なかった代わりに、こうして後世にその労苦を伝えるために作られた資料館で、年末年始以外は年中無休・入場料無料です。
龍馬達のような若者が出てきて日本を近代国家へ平和的革命を起こし、日本は欧米列強と肩を並べるまでになった。しかし、世界の風を読めないKYオヤジのせいで、日本は焦土と化した。でも、さらにそこから日本は世界GDP二位の国にまでなることができた。すべて先達の努力の賜です。ならば、我々がすべきミッションは何か?。そういうことを47才になった私も多くは40代以上である経営者も考える必要があるのだろうと思うのであります。
そのためにも「ゆでガエル」は、最初は寒かろうけど、お湯から出るべきなのです。そして体をよく拭いて、水を一息飲み干して、「さぁーて」と高台に登って今一度世界を、そして足下を見直すことから始めなければならないのではないでしょうか。