《 事業経営、同族経営、そして老害 》
昨年の夏に勤務先の組織上の変更があり、それまで東名阪の企業だけしか担当できなかったのが、全国の小売業、卸売業、外食業、サービス業といった「消費関連産業」に所属する企業を担当できるようになり、アナリスト時代よりも遙かに多くの企業の方々とお話をすることが増えました。そして、いずれの産業であっても多くの悩みは「事業継承」の問題であるといえます。特に「消費関連産業」は製造業のような資本集約産業ではなく、労働集約産業であり、企業運営のノウハウはヒトが持っていることが多いので、「事業継承」は簡単ではありません。
また太平洋戦争後の復興において、第二次産業にすべての社会的資源が傾斜配分された日本においては、どうしても第三次産業は優れた起業家が興した企業組織が依然として大手企業として存在しているケースが多いといえます。そのため、「事業承継」問題はイコール「同族経営」問題であるケースが多いといえます。
ここで問題になってくるのは次の二点です。まず第一に創業者は必ず高齢化するということ。そして第二に創業者の経験値を超えることは誰にも絶対にできないということです。そこでよく発生するのが、創業者の「老害」の問題です。
ただ一口に「老害」と私も含めて周りは言いますが、本当にその一言で片付けてよいのかは簡単な問題ではないと感じることが昨年の夏以降、多くの様々な企業の創業者に会って思うことが増えました。特に一番考え込まされたのはある親子経営者の企業に伺った時のことです。
《 経験の価値 》
私としては長年、その企業の経営を拝見していて、創業者である会長のいうことに対しては社員や取締役どころか、実子である社長や金融機関も何も言えない状態になっていることを強く感じていました。そして残念なことに会長が語る理念通りの経営はできない状態になっていました。会長は、謙虚で感謝の心を忘れない経営を謳っているのですが、実際は会長の言う利益予算の達成のためにベンダーへの不当なリベート要請やパワーハラスメントに抵触する可能性のあるような従業員の働かせ方をしていたのです。
ご存じの佐々木の性格ですから、「言わないで陰でその会社のことを悪くいうならば、言って怒られてお出入り禁止になった方がまだマシ」という、相変わらず素っ頓狂なことを考えてまして、創業者にお会いした時に「こうした現状は会長が裸の王様になっていることを証明しているのではないか、これを打破できるのは会長だけである」、という旨のことを申し上げました。当然、同席したその会社の方は青ざめておりましたし、もっと青ざめていたのは弊社の人間であったように記憶しております(爆笑)。
ところが、このわたくしの生意気な意見に対しての会長の反応は意外なものでした。「あのな、俺は70歳も半ばになった。で、30歳になったら20歳の時にわからなかったことがわかるようになった。40歳になったら30歳の時にわからなかったことがわかるようになった。で、50歳、60歳、70歳だ。人間、経験でしかわからないことがある。それをきちんと会社と社長についでいくのが俺の役目なんだよ。」と激高するわけでもなく、かといって言い訳するような声でもなく、淡々とおっしゃったのです。この一言には、今度は私がぐうの音もでませんでした。
《 イマドキの若者賛 》
それから一ヶ月くらい、ずっと会長の言葉が頭に残っておりました。「創業者=同族経営の親玉=近代経営の阻害要因=老害」という自分の考え方は間違っているのだろうかという思いと、でも実際にそうして企業や経営の寿命を縮めているところも数多くあるという矛盾にどう折り合いをつけてよいかわからなくなってきていました。
そんな中で私が経営するある学習塾の決算説明会がありました。ここの塾長(社長)は非常にすばらしい教育理念の持ち主であり、なおかつ授業や生徒、講師に対する情熱も熱い方です。ただ、少子高齢化の中、株式市場としてはどうしても学習塾というのは人気が出にくい産業です。実際のところ説明会の参加者も寂しい人数でした。でも、そこで伺ったお話は一ヶ月悩んでいた「経営承継」問題への悩みへのヒントを与えてくれました。文章にすると長くなりますので、塾長のお話を箇条書きにしましょう。
・ 今は早慶上智など一部私立、旧帝国大学、旧商高系大学以外は誰でも入学できる時代になっている。これは少子化によるもので、AO入試などといって、我々世代が知らない入試制度ができているのは各大学ともに生徒の奪い合いになっているから。
・ しかしこれを言うと、そんなことで日本は大丈夫なのかとこの説明会に参加してくれている40代、50代の人は思うだろう。でも、心配する必要はない。
・ わたし(=塾長)は30年以上、生徒をみてきているが、最近の学生が変わってきている点がある。特に高校生がそうなのだが、それは「明るくて、のびのびした学校生活を楽しんでおり、発想が自由」ということだ。なぜならば、理由は単純。受験地獄がなくなったからだ。つまり1970年代の教育評論家が言っていた、受験地獄が若者の自由な発想力を阻害しているという懸念をが、やっと解消される時代が来たということなのだ。
・ その証拠に、今の高校生は外国人と友達になることになんの抵抗もためらいもない。言葉の壁も感じない。海外には行きなれているので、留学ややりたいことをさがして日本を出ることを厭わない。いわゆる五教科がものすごくできる子供でも、自分がやりたいという理由で美術や音楽といった芸術系の学校にためらいなく進学していく。今の40代以上の若かった頃に比べて、非常に「軽々」と様々なボーダーを超えていくことができる。マスメディアが報道するほど今の若者はひ弱ではなく、我々が持ち得なかった価値観を持って、世界に飛び立つようになっている。
・ だから、わたし(=塾長)は本当にこの仕事をしていて楽しいと思う。常に若い人たちの新しい価値観、新しいよいところをみることのできる商売はそうそうないのだから。
《 自分は古い水夫じゃないのか 》
佐々木は非常にショックを受けました。なぜならば、我が家の中学校三年生の息子にはまさしく塾長のいう古い価値観を押しつけていたからです。なるほど、いわれてみれば、佐々木は英語を読解できても、リスニングは全くの苦手。でも息子は読解と文法はひどい点数ですが、リスニングは常に満点近くをとってきます。で、英語を道具として使う時にどっちが重要かといえば…..もちろんリスニング、「聞き取れる耳」の方が重要です。つまり、佐々木より息子の方がこれから世界を舞台にして食っていける能力はあるのだということですね。
そんな中で思い出したのが吉田拓郎さんの名曲、「イメージの詩(うた)」です。その中の一節。
古い船には古い水夫が
乗り込んでいくだろう
古い船をいま動かせるのは
古い水夫じゃないだろう
なぜなら
古い船も新しい船のように
新しい海へ出る
古い水夫は知っているのサ
新しい海の怖さを
1970年6月に発売されたこの歌は吉田拓郎さんのデビュー曲であると同時に、70年代安保の後の若者の考え方を色濃く残しています。その時の若者がまさしく団塊の世代、60歳代前半。さて、「60歳の俺は50歳以下の人間には経験できないことを知っているのだから、その経験を若い奴らに教え込んでやらねばならない」という考え方と、「古い水夫(=自分)が知っているであろう、新しい海の怖さに本当に怖じ気づいていないのか」という疑問。答えはどちらにあるのでしょうか。ちなみに吉田拓郎さんはすでに63歳になりました。メディアの取材で「すでに俺は古い水夫だもんなぁ」と、オールナイトニッポンを一緒にやっている坂崎幸之助さんに苦笑いしながら答えています。
佐々木は今年の夏が来れば47歳。世間的には壮年と呼ばれる年齢ですが、一方で、30代の頃の燃えるような情熱やら反抗心が薄れていることも感じます。ただ、幸いというか、不幸にというか、佐々木は経営者ではありません。社会的な影響力は小さいというのがせめてもの救いでしょうか。さて、経営者の皆さんはどうなのでしょうか?